清原が阪神の「四番・一塁」になったら

1996年オフ、FAで阪神ではなく巨人へ移籍した清原
1996年オフ、
西武の
清原和博がFA宣言。ドラフトでも熱望していた巨人が第一希望だったが、熱心に誘ったのが阪神だった。
吉田義男監督は「ユニフォームのタテジマをヨコにしてでも」と清原にラブ
コール。それでも、巨人の
長嶋茂雄監督に「僕の胸に飛び込んできなさい」と言われて、巨人へ移籍した。これでポジションが重なる
落合博満が自ら自由契約を希望して
日本ハムへ。清原は巨人の四番打者として奮闘することになる。
球界を代表する強打者が動いたシーズンオフだったが、清原を獲得できなかった阪神は結果的に大きな補強はなし。85年を最後に栄光から遠ざかり、長い低迷期にあった阪神は、その後もBクラスに沈み続ける。では、もし清原が巨人ではなく阪神を選んでいたら、どんな戦力になっていただろう。97年は最下位から5位に浮上と健闘した(?)阪神のベストオーダーに、清原を突っ込んでみる。打順は四番、守備位置は一塁だ。
1(二)
和田豊 2(遊)
久慈照嘉 3(左)
コールズ 4(一)清原和博
5(右)
桧山進次郎 6(三)
星野修 7(中)
新庄剛志 8(捕)
山田勝彦 9(投)
湯舟敏郎 実際は桧山が四番で、一塁は五番の
平塚克洋だったが、今回は桧山の打順を繰り下げて、平塚を外してみた。このとき20本塁打を超えたのが桧山と新庄で、清原は巨人で32本塁打を放っていて、同じ数字を清原が阪神で残したとすればチーム最多となる。
ただ、桧山と新庄は三振も量産していて、チーム1000三振というプロ野球新記録もあったシーズンだが、97年の三振王は巨人の清原。これもスライドさせると、チーム三振の新記録も大きくなることになる。そうそう低迷から抜け出せなかったかもしれないが、タテジマのユニフォームがヨコジマになっていたのは間違いなさそうだ(?)。
文=犬企画マンホール 写真=BBM