ブライアントはシーズン途中の移籍

移籍1年目に優勝を決める劇的弾を放った北川
2リーグ制となった1950年に参加し、球界再編の嵐が吹き荒れた2004年を最後に歴史となった近鉄。最後は
オリックスに吸収される形での“消滅”だった。つい先日の現役ドラフトで、近鉄の選手たちが分配ドラフトにかけられ、オリックスと新たに誕生した
楽天に振り分けられたことを思い出した向きもいるのではないだろうか。近鉄のストーブリーグはラストシーンの衝撃に上書きされている面もあるが、近鉄はリーグ優勝とトレードに密接な関係のあるチームだった。
紳士的な姿勢ゆえに初期は低迷に苦しむという皮肉を味わった近鉄。初のリーグ優勝は1979年のことだ。このとき“優勝の使者”といわれたのが
チャーリー・マニエルだ。マニエルは前年の78年に
ヤクルトで初のリーグ優勝、日本一に貢献した助っ人だが、
広岡達朗監督の方針に合わず、オフに2対3の大型トレードで内野手の
永尾泰憲とともに近鉄へ。永尾も渋いプレーで活躍したが、マニエルは死球でアゴを骨折しながらも29試合の欠場だけでフェースギアを装着して復帰するなど壮絶な場面もあり、最終的には37本塁打で本塁打王にMVP。翌80年にも48本塁打、129打点で本塁打王、打点王の打撃2冠という活躍でリーグ連覇の立役者となった。
次のリーグ優勝は89年だが、前年のシーズン中に近鉄へ来ていたのが同じく助っ人の
ラルフ・ブライアント。これはデービスの逮捕、解雇により
中日の二軍でくすぶっていたブライアントに白羽の矢が立ったもので、交換トレードではなかったが、近鉄とブライアント、両者にとって最高の結果となった。
最後のリーグ優勝は2001年。投手陣が安定していたと言い難いチームで爆発したのがローズ、
中村紀洋らの“いてまえ打線”だったが、最後を決めたのが移籍1年目の
北川博敏だった。捕手として3対3の大型トレードで移籍してきた北川は、捕手として以上に勝負強い打撃で貢献。代打逆転サヨナラ満塁本塁打で優勝を決めるという離れ業をやってのけた。その後はレギュラーに定着した北川は、前述の分配ドラフトで移籍したオリックスで12年までプレーを続けている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM