自由契約で来た男たち
ヤクルトは2リーグ制となって参加した国鉄が起源で、各地の鉄道局(鉄道管理局)から集まった選手が多かったが、1年目の1950年シーズン途中に入団した左腕の
金田正一が主力に。西鉄(現在の
西武)黄金時代の主軸だった
豊田泰光の加入、チームがサンケイとなってからは金田の
巨人への移籍などもあったが、これらはトレードではなかった。
チームがヤクルトとなってからは入団を希望しながらも大洋(現在の
DeNA)にドラフト1位で指名された
荒川堯の“三角トレード”騒動、
日本ハムを事実上の放出によってトレードで来た
大杉勝男の活躍もあるが、トレードは比較的、穏やかなチームといえるかもしれない。ただ、ストーブリーグが無風かといえば、否。自由契約により移籍してきた選手が1年目から活躍する姿が目立ったのが、90年に就任した
野村克也監督の“ID野球”時代だ。
池山隆寛、
広沢克己、
古田敦也ら生え抜きの強打者が引っ張ったヤクルト打線だったが、94年オフに
阪神を自由契約となり、ヤクルトへ来たのが
トーマス・オマリー。自己最多の31本塁打でリーグ優勝に貢献、最終的には
オリックス下した日本シリーズでは第4戦(神宮)の延長10回裏に
小林宏との名勝負もあり、シーズン、シリーズともMVPに輝いた。
オマリーは96年オフにチームを去ったが、ほぼ時を同じくして移籍してきたのが
広島を自由契約となった
小早川毅彦。80年代の後半は“赤ヘルの若大将”の異名を取ったが、世代交代もあって出場機会を減らしていた。それがヤクルトへ移籍すると、1年目どころか開幕戦から爆発する。相手は巨人、舞台は敵地の東京ドームで、マウンドには開幕戦4連勝中、前年はヤクルト戦で無傷の6連勝という
斎藤雅樹。野村監督は「お前は人生の門出に必ずいいことがある」と小早川を五番に据えた。
確かに広島では1年目に新人王となった小早川。ヤクルトでの初打席から本塁打を放つと、その勢いのまま3打席連続本塁打で、ヤクルトの“天敵”をKO。小早川は「どんな球もホームランにできる」と思ったという。小早川は99年オフ、ヤクルトで現役を引退している。
文=犬企画マンホール 写真=BBM