レジェンドの自由契約

1978年の1年間、ロッテでプレーした野村
時代が平成となり、プロ野球では
ヤクルト、
阪神、そして
楽天の監督としてのユニフォーム姿も目に焼きついている
野村克也。選手として所属したのは、南海(現在の
ソフトバンク)、ロッテ、
西武のパ・リーグ3チームだ。南海ではベテランとなってから監督を兼任しており、監督としてのスタートも選手と同様、南海となる。1954年、入団テストを受けてのプロ入りで、そこから通算657本塁打を積み重ねた長距離砲。選手として2度の移籍を経験した野村だが、結論から言えば、それはトレードではなかった。
戦後、2リーグ制となって最初の三冠王に輝いたのは65年で、兼任監督となったのは70年。73年には四番打者と司令塔も担って、リーグ優勝に導いている。最初の移籍は77年オフ。16本塁打と長打は減っていたが、まだ監督も兼ねており、当時の球界を引っ張る存在だったことは間違いない。もし交換トレードなら、どれほどの選手が相手だっただろうか。
厳密には77年のペナントレース中、9月26日に監督を解任され、そのまま退団。野村は「クビになった」「追い出された」などと表現しているが、
金田正一監督の率いるロッテに声をかけられ、選手として移籍することになる。「生涯一捕手」という座右の銘を掲げたのは、このときのことだ。ちなみに、野村を慕う
江夏豊や
柏原純一ら投打の主力も移籍を志願して南海を離れ、柏原は
日本ハム移籍を一度は拒否するなど騒動になっている。
ロッテ時代は短かった。わずか1年。プロ24年目を終え、すでに通算648本塁打となっていたが、出場機会は激減、このときも自由契約だった。新天地は西武。「ボロボロになるまでやりたい」という野村の思いと、生まれ変わったばかりの西武の「全国区の人気選手を獲れ」という思惑が合致した結果でもあった。西武には2年間の在籍。リリーフ捕手として存在感を放ち、前人未到の通算3000試合出場を突破、そして80年オフに現役を引退した。最終的には通算3017試合出場。これは21世紀に、同じ捕手で監督も兼ねていた
中日の
谷繁元信が更新するまで、長くプロ野球の頂点にあった数字だ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM