大阪から「行ってまいります!」

南海最後の指揮官となった杉浦監督
1999年にリーグ優勝、日本一を決めて以来、九州で栄華を誇るホークス。当時はダイエーで、2004年の球界再編を経て現在の
ソフトバンクとなっている。とはいえ、ダイエー時代も最初は深い低迷の底にあった。それは前身の南海から続いていたものだが、遠い昭和の昔には、南海にも輝かしい黄金時代があった。
初優勝は戦後1年目、1リーグ時代の1946年。このときのチーム名はグレートリングで、率いていたのは兼任監督の
山本一人(鶴岡一人)だった。南海としての初優勝はホークス2年目の48年で、監督は同じく山本。本格的な黄金時代は2リーグ制となった50年代からで、50年代に5度、60年代に4度のリーグ優勝、59年には日本一にも輝いたが、すべて山本(鶴岡)監督だった。この鶴岡の名言として有名なのが「グラウンドには銭が落ちている」。野球で稼ぐというプロの世界では、まずは試合に出なければならない、というのをズバリ表現した言葉で、人気漫画『グラゼニ』の語源にもなった。
鶴岡を除いて南海を優勝に導いたのは選手と兼任で率いた73年の
野村克也しかいない。のちに監督の名言といえば野村といえる存在となったが、南海についてインパクトを残すのは「南海ホークスは好きだけど南海球団は嫌い」ではないだろうか。野村が追われるように南海を去ると、チームは低迷。かつてエースとして野村とバッテリーを組んだ
杉浦忠監督の88年を最後に、南海は歴史に幕を下ろした。本拠地も大阪から現在の福岡へ移転となったが、大阪球場での最終戦で杉浦監督がファンに向けて「行ってまいります!」と挨拶。ファンの涙を誘った。
ダイエーを初の歓喜に導いたのは
王貞治監督だ。ダイエーは当初、九州で平和台球場を本拠地としていたが、93年には完成したばかりの福岡ドームへと移っていた。そして99年、その福岡ドームで優勝を決め、胴上げされた王監督は「ドームの屋根に届くかと思うほど高い胴上げだった。この宇宙を独り占めした感覚だね」とコメントしている。時が流れ、時代が変わり、ホークスに新たな歴史が始まったことを感じさせる言葉だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM