1月30日、『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第1弾、1958年編が発売された。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1958年編表紙
手ごたえはあったのだが……
プロ野球の歴史を1年1冊で振り返る「よみがえるプロ野球シリーズ」。これまで3年間にわたり,1980年代、90年代、70年代をエクストラを含めれば、36冊で振り返ってきたが、2023年の第4シリーズでは、1958年から69年までの12年間を振り返っていく。
資料が少ない時代であり、これまでより多少制作時間が必要になるため、今回は2カ月に1冊で2024年完結の予定とさせていただくことにした。
今回は1958年編から「南海のチーム情報ページ」の記事をピックアップし、加筆して掲載する。
メジャー・リーグでは19世紀から存在したというスイッチヒッターだが、日本においてパイオニアと言われたのは、1962年入団の
巨人・
柴田勲。実はミッキー・マントルにあこがれ、中学時代にも左打ちを試したこともあったという(もともと右打ち)。
ただ、柴田の成功でスイッチヒッターの存在を日本中に知らしめたことは確かだが、本当の意味での元祖は、プロ野球創設期からいた日系人選手、
堀尾文人(阪急ほか)であり、また高校時代であれば、左打ちの
中河美芳(イーグルス)も左投手対策でやっていたらしき記述がある。
さらに言えば、巨人の伝説の大投手・
沢村栄治は京都商時代、右投げ左打ちだったという。右で打ったか左で打ったかは公式記録に残っておらず、実際にはスイッチはともかく、右投げ左打ちは、もっとたくさんいたのかもしれない。
スイッチか左打ちへの転向か定かではないが、この1958年も本来右打ちの南海・
広瀬叔功内野手が左打ちに挑戦したという記事があった。実戦は7月6日の東映戦(大阪)ダブルヘッダー第2試合で、2打席とも凡退。ただ、打球はそれなりに鋭く、手応えはあったという。
しかし、翌日、左打ちの打撃練習をしていた際、上半身の筋肉を痛め、2試合欠場。左打ち挑戦も断念した。「もう左打ちはこりごりです。ケガしたときは親分(山本(鶴岡)一人監督)から罰金だと言われ、一時はどうなることかと思いました」と苦笑いしていた。
広瀬は、
野村克也捕手いわく天才。盗塁においては「勝利につながらぬ盗塁はしない」と高い成功率を誇り、打撃でも64年には打率4割に迫った(最終的には.366で首位打者)。守備でも内外野をこなし、これはファンサービスも兼ねてと思うが、70年には投手として1試合にも登板している。
ちなみにこの年の南海は新人・
杉浦忠の快投もあって、途中までは優勝間違いなしと思われたが、西鉄に逆転され、2位に終わった。
※追記
コメント欄で1936年秋の首位打者・
中根之(なかね・すすむ)のほうが元祖というものがあり、調べてみた。
明確な資料はなかったが、
千葉茂さん(元巨人)のコラムで、千葉さんもジミーこと堀尾と中根のどちらが早いか疑問に思ったらしく、中根さんに直接尋ねたことがあったという。
その答えは「俺のほうが早いよ」だった。
第一神港商時代、先輩の二出川延明から「足を生かすため左で打ってみたら」とアドバイスされて始めたという。