阪急では「やめる山田、そして……」

阪急時代の上田監督
去る2022年まで2年連続でパ・リーグを制した
オリックス。黄金時代の到来かどうかは、迎えた23年の結果を待たねばなるまい。前身は阪急。長く“灰色”と揶揄されたチームだったが、
西本幸雄監督が1967年に初のリーグ優勝に導くと、黄金時代が到来した。
そのあとを受けたのが
上田利治監督だ。就任2年目となる75年に初の日本一に輝くと、以降4年連続リーグ優勝、3年連続で日本一に。黄金時代はピークを迎え、上田監督は79年からの2年間を除いてオリックス時代の90年まで指揮を執っている。一方で、78年の
ヤクルトとの日本シリーズでの1時間19分にわたる抗議や、非情なトレードなどでも物議をかもした指揮官でもあった。
宿敵の
巨人を破って日本一となった76年オフには、その第7戦で起死回生の逆転2ランを放った
森本潔や、ノーヒットノーランを含む12勝を挙げた
戸田善紀ら4人との交換で、
中日から
稲葉光雄、
島谷金二ら3人を獲得。翌77年に稲葉が17勝、島谷が森本の後釜で三塁手として打率リーグ2位と活躍した一方、森本や戸田は失速したが、上田監督は「移籍でマンネリを防ぎたかった。チームに緊張感を作りたかったんです」と振り返っている。
ただ、上田監督の発言で最強のインパクトを残すのは、88年のシーズン最終戦での言葉だろう。阪急としてのラストシーズン。エースの
山田久志は引退を決めており、あいさつに立った上田監督は「きょうを最後に、やめる山田、そして福本」と言ってしまう。福本とはオリックスとなっても現役を続けるつもりだった“世界の盗塁王”
福本豊。上田監督は「残る福本、と言おうとして間違えた」というが、「ややこしくなる」と、福本らしい潔さで引退を決めている。
時は流れ、95年から
日本ハムを率いていた上田監督。パ・リーグが混戦となった98年には「熱パ、混パを勝って、立パ(立派)と言われたいね」と、ジョーク(?)を飛ばしたこともあった。ちなみに前半戦を首位で折り返した日本ハムが歴史的な急失速をしたことで「混パ」となったのだが、日本ハムは最終的には
西武に届かず2位に終わっている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM