同じ「六番・三塁」に……

1年目の原。22本塁打を放ち新人王に輝いた
第2回WBCで侍ジャパンを連覇に導き、現在は
巨人を率いる
原辰徳監督の若い時代にさかのぼり、もし巨人に高校生でドラフトで指名されていたら、もし大学生でドラフトに指名された際に巨人ではなく大洋(現在の
DeNA)が交渉権を獲得していたら、という「もしも」を続けて想定してきたが、原を夢の世界で加入させてみても、1979年の巨人も、83年の大洋も、ともに優勝に到達するのは難しそうだった。
ただ、原は80年の秋にドラフトで4球団に指名されている。指名の順に大洋(現在のDeNA)、
日本ハム、巨人、
広島。このうち日本ハムと巨人は実際の原にとってはプロ1年目となる81年に優勝しているが、セ・リーグの王者に迫ったのは黄金時代の広島だ。巨人とは6ゲーム差の2位。もし広島が原の交渉権を獲得していたら、この6ゲーム差は縮まった、あるいは覆っただろうか。ちなみに、原の外れ1位で広島が指名したのが左腕の
川口和久で、もし原を獲得していたら、その後の黄金時代の風景は、かなり違ったものになっただろう。
81年の巨人で、そのベストオーダーに原は「六番・三塁」で並んでいる。のちの四番打者の印象も強く、新人王に輝いた原だが、この81年の四番は原に守備位置を奪われることになった
中畑清がメーンだった。ここで、原を広島でも1年目から実際と同様に活躍したと仮定して、同じ打順、同じ守備位置で原を広島のベストオーダーに入れてみる。作業は機械的だ。それも当時の機械レベルで、昨今のAIのように賢くなく、忖度もない。原を打順で六番に入れて、打線から外れるのは同じ守備位置の選手、その選手が六番打者でなければ、その前後の打順を繰り上げたり繰り下げたりするだけ。そんな無機質な作業をしてみると、以下のようなラインアップとなる。
1(遊)
高橋慶彦 2(二)
木下富雄 3(右)
ジム・ライトル 4(中)
山本浩二 5(一)
水谷実雄 6(三)原辰徳
7(左)
アート・ガードナー 8(捕)
水沼四郎 9(投)
北別府学 実際のベストオーダーは?

連続試合出場で前人未到の領域に入った81年の衣笠
おそらく、多くの広島ファンが、いや広島ファンならずとも、当時を知るプロ野球ファンなら、違和感を覚えたのではないか。そして、その違和感の正体に気づいたとき、反感に近い感情に覆われたのではないだろうか。当時、誰が試合を休もうが、すべての試合でグラウンドに姿があった、あの男の名前がないのだ。
81年の広島で「六番・三塁」にいたのが
衣笠祥雄。連続フルイニング出場こそ79年に途切れていたものの、70年のシーズン終盤からの連続試合出場の真っ最中。80年にプロ野球の頂点に立ち、前人未到の領域に入ったばかりだ。四番の山本浩二と並ぶ“YK砲”の印象も強いが、81年の五番は一塁手の水谷実雄が多く、今回の単純作業では打順の変更もなく衣笠が弾かれてしまったのだ。代打などで出れば連続試合出場は途切れない、などという問題ではない。あの当時の広島で先発メンバーに衣笠がいないだけで大問題だ(これは機械的ではなく人間的な感情)。
ベテランでも衰えのない衣笠と1年目の原、その成績を比べてみても、打撃3部門すべてで衣笠に軍配が上がる。とはいえ、1年目ながらも原は衣笠に迫る結果を残しており、もし原が広島に入団していたら、やはり控えに回すのは惜しい逸材だ。実際の巨人と同様、原を二塁手としてデビューさせると、いぶし銀の木下富雄が外れてしまう。衣笠は一塁の経験も豊富だが、その一塁には水谷。やはり原が外野に回るのか。衣笠が“本職”の捕手としてマスクをかぶる、という奇策もあるかもしれない。
古葉竹識監督なら、どうするだろうか……? では、続きはファンの皆様の夢の中で。
(広島1981年のベストオーダー)
1(遊)高橋慶彦
2(二)木下富雄
3(右)ライトル
4(中)山本浩二
5(一)水谷実雄
6(三)衣笠祥雄
7(左)ガードナー
8(捕)水沼四郎
9(投)北別府学
文=犬企画マンホール 写真=BBM