ラストイヤーに27本塁打

現役最後の1986年に27本塁打を放った山本
第3回WBCを率いたのが
山本浩二監督。
広島ひと筋、“ミスター・赤ヘル”と呼ばれた長距離砲で、ドラフト1位で1969年に入団、86年いっぱいで現役を引退するまで通算536本塁打を積み上げた。これは全体では4位だが、大卒の選手としては最多となる。ただ、本塁打が急増したのは30歳を過ぎてからで、77年から5年連続でシーズン40本塁打を突破、ラストイヤーの86年も27本塁打を残している。プロ野球で唯一、第8戦までもつれた
西武との日本シリーズがラストシーン。広島は惜しくも日本一に届かなかったが、山本は「惜しまれているうちにやめるのが男よ」とも語っていた。そう、なんとも惜しい引き際だったのだ。
86年の山本は「四番・左翼」。もともと中堅手だったが、83年から左翼に回っていた。それでも、打順は最後まで四番がメインだったから、その打棒に目に見える衰えがなかったということだろう。これは80年オフに「
王貞治のバッティングができなくなった」とバットを置いた王と同じだ。山本の抜けた翌87年の広島は、その王監督の率いる
巨人と11.5ゲーム差、
中日にも3.5ゲーム差で届かず3位。もし山本がいたら……と、どうしても想像してしまう。もし山本が86年と同じくらいの数字を残していたら、広島のリーグ連覇、あるいは日本シリーズの雪辱を果たす日本一はあっただろうか。
今回も、これまでと同様、86年から山本の打順と守備位置を変えず、翌87年にスライド。守備位置が重なる選手、つまり87年の左翼手を自動的にオーダーから外してみる。山本を四番に入れるため、実際の左翼手がいた打順まで、実際の四番打者から繰り下げていく。戦術的な面などは基本的に考慮しない。すると、以下のようなラインアップとなった。
1(右)
山崎隆造 2(二)
正田耕三 3(遊)
高橋慶彦 4(左)山本浩二
5(一)
小早川毅彦 6(三)
衣笠祥雄 7(中)
長嶋清幸 8(捕)
達川光男 9(投)
大野豊 実際のベストオーダーは?

来日1年目の1987年に39本塁打でタイトルを獲得したランス
山崎隆造、正田耕三、高橋慶彦と機動力のあるスイッチヒッターが一番から並び、これに続くのが山本だ。実際に87年の四番打者だった小早川毅彦が五番に繰り下がり、引退まで試合に出場し続けた衣笠祥雄、勝負強さで鳴らした背番号ゼロの長嶋清幸も打順を繰り下げ。捕手の達川光男、投手の大野豊は、実際の打順どおりだ。
山本に弾き出される形になったのは七番が多かった左翼手の
R.ランス。この87年に来日したばかりの助っ人で、翌88年シーズン途中に退団と、プロ野球でプレーした期間は2年に満たない。また、助っ人で七番というのは決して多い打順ではなく、当時を知らない人には頼りなく思えるかもしれないが、来日1年目は39本塁打。中日の
落合博満と
阪神の
ランディ・バースが三冠王を争うのでは、と注目が集まったシーズンだったが、来たばかりのランスが本塁打王に輝くという意外な展開となった。
ただ、ランスが山本の穴を埋めたかというと微妙だ。本塁打王には違いないが、打率.218と安定感には欠け、プレー期間の短さもあって、当時の人気CMから「ランスにゴン」と言われた印象のほうが強い、というファンも多そうだ。ちなみに山本の86年は打率.276だった。打点は山本の86年が78打点、ランスの87年が83打点とランスに軍配が上がるものの、“YK砲”の間に“赤ヘルの若大将”が挟まるクリーンアップは魅力的。四番に山本がいる黄金時代の定番もチームの士気を上げそうな気がする。
では、続きはファンの皆様の夢の中で。ただ、87年は衣笠のラストイヤー。山本と衣笠が一気に抜けることになったら、現実を超える寂しさが残るかもしれない。
(広島1987年のベストオーダー)
1(右)山崎隆造
2(二)正田耕三
3(遊)高橋慶彦
4(一)小早川毅彦
5(三)衣笠祥雄
6(中)長嶋清幸
7(左)R.ランス
8(捕)達川光男
9(投)大野豊
文=犬企画マンホール 写真=BBM