定岡正二氏、篠塚和典氏、川口和久氏、槙原寛己氏の書籍『昭和ドロップ!』がベースボール・マガジン社から発売されました。昭和に生まれ育ち、昭和、平成に輝いた4人が、巨人、長嶋茂雄、青春の多摩川ライフなど、あのころのプロ野球を愛あり笑いありでたっぷり語り合う1冊です! これは不定期で、その内容の一部を掲載していく連載です。 「お辞儀してるのかと思ったよ。こんにちは、皆さんって」(定岡)

『昭和ドロップ!』表紙
今回も定岡正二さん、篠塚和典さん、槙原寛己さんで巨人の助っ人たちについて語ってもらったものです。
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槙原 クロマティ(1984-1990)はレジーさんがいたときは猫かぶっておとなしかったですよね。
定岡 いなくなったら、人が変わったように俺の天下みたいになったけどね(笑)。
槙原 実際、天下でしたよ。相手のいいピッチャーのウイニングショットを打つ。みんなが打てないときに打つから、僕らピッチャーは頼もしかったです。
──すごいクラウチングフォームでしたよね。
槙原 初めはあんなんで打てるのかと思いました。
定岡 お辞儀してるのかと思ったよ。こんにちは、皆さんって(笑)。
槙原 ピート・ローズ(MLBの大打者)もああいう構えでした。あの当時、流行だったんですよね。シノさん、あれで打てるんですか。
篠塚 俺は打てないね。力のある人じゃないとああいう構えでは打てない。
槙原 体に近い球は怖そうなのに、耳当てのないヘルメットを使ってましたよね。
篠塚 しかもステップはクロスだからね。ボールに向かって行ってる。
槙原 サダさんよりも年上ですよね?
定岡 2つか3つくらい上かな。「サダー」ってかわいかったですよ。野球から離れたらそういう感じで、なんか憎めないよね。シノには今でも連絡あるんでしょ。
篠塚 子どもが生まれたらしいね。
定岡 いつまでも元気だな(笑)。日本のファンに愛されて、クロマティも日本を大好きになって、その相乗効果があってパフォーマンスがあったと思う。日本シリーズの例の守備のことばっかりクローズアップされるけど(1987年、
西武との日本シリーズ。センターのクロマティの怠慢返球を突き、一塁走者・
辻発彦が一気にホームにかえった)、決して守備も下手じゃないし、何回も助けてもらった。ちゃんとマジメにやってたよね。
槙原 とにかくバッティングは際立ってましたよ。あとヘッドスライディングもね。あれもカッコよかった。
篠塚 ものすごく勉強してましたよ。日本の野球もそうだし、日本語も。
定岡 一番日本語をしゃべってたよね。
槙原 こっちの話してることもだいたい分かってましたよね。
篠塚 都合の悪いことは「ワカラナイ」って言ってたけど(笑)。
定岡 「うそつけ、お前、分かるじゃないか」ってね(笑)。
篠塚 ジャイアンツの中では一番の助っ人じゃないかな。途中まで4割以上の打率で首位打者も獲ったしね(最終的には.378。1989年)。
槙原 クロウさん、普通のランニングシューズで打撃練習してましたよね。
篠塚 そう言えば、あれ誰だったっけ?
定岡 誰よ、あれって。
槙原 メガネかけた
マイク・ブラウン(1990)でしょ。マネしてランニングシューズで打ってたら、コーチの
近藤昭仁さんにミーティングで、すげえ怒られてね。「クロマティは別なんだ!」って(笑)。でも、90年代になると外国人選手も一気に増えて、同じような名前もいましたね。紛らわしいのが
フィル・ブラッドリー(1991)と
ミッキー・ブラントリー(1993)でした。
定岡 ハハハ、確かに分からん。
槙原 ブラントリーは、息子がアストロズで三番を打ってるんですよ(2020年オフFA)。
篠塚 ジェシー・バーフィールド(1993)もカッコよかったね。
槙原 バーフィールドは毎日、ライトから返球の練習をしてたんです。肩がすごく強くて、しかも、マジメに練習をしてましたよね。
シェーン・マック(1995-1996)もナイスガイでした。
篠塚 そう言えば、『台湾の
イチロー』って触れ込みで来たのもいたよな。
槙原 向こうでは打率3割8分くらい打ったらしいですけど、足も遅いし、ヒットも打たないんですよ。守備もひどくて、サードを守ってましたけど、サードゴロでファーストがセーフになっちゃう(笑)。本物のイチローに申し訳ないような選手でした。名前なんだっけな……あ、
ルイス・デロスサントス(1997)だ!
篠塚 そうそう、ルイスだ。今度、巨人の外国人のリストを見ながら話そうよ。俺も何人も外国人選手とやってるからこんがらがってきた。すぐ帰っちゃった外国人もたくさんいるしね。