中西太コーチは「辛抱じゃ」

1989年に49本塁打を放ち、近鉄の優勝に貢献したブライアント
時代は昭和から平成に。それは近鉄にとっても波乱の時期だった。平成元年、つまり1989年、近鉄は前年の雪辱を果たすかのようなリーグ優勝。その主役は、助っ人のラルフ・ブライアントだった。
このときブライアントは来日2年目。一軍デビューは近鉄だが、プロ野球で最初に所属したのは
中日だった。ただ、中日では「まるで軍隊にいるようだった」とブライアントは振り返っている。当時は外国人選手の一軍登録は2人までに制限されていた。中日には投手の
郭源治、野手の
ゲーリー・レーシッチと、すでに実績を残している助っ人がおり、ブライアントは二軍から動けなかったのだ。
そんな“第3の外国人”に白羽の矢を立てたのが近鉄だった。主軸の
リチャード・デービスがシーズン途中に大麻不法所持で逮捕され、解雇。急遽、その穴を埋めるべく、金銭トレードでブライアントを獲得する。ブライアントにとって近鉄は救世主のようなものであり、近鉄にとってもブライアントは救世主となった。
6月27日に移籍。ただ、ブライアントの打撃は粗削りだった。これをマンツーマンで指導したのが
中西太コーチだ。のちにブライアントは成功の秘訣を問われて「シンボウ」と答えている。これは中西コーチが口癖のように言っていた「辛抱じゃ」を覚えたもの。才能の花を咲かせたブライアントは74試合で34本塁打と打ちまくって、近鉄もリーグ優勝を争う躍進。ただ、このときは
ロッテとの最終戦ダブルヘッダーに連勝できず、勝率2厘の差で王座には届かなかった。
迎えた89年のブライアントは49本塁打で本塁打王。前年と同様、終盤のダブルヘッダーでドラマが待っていた。対するは前年の覇者でもある
西武だ。そこでブライアントは2試合にまたがる4打数連続本塁打。これで西武に連勝した近鉄は
オリックス、西武と僅差で優勝を決め、ブライアントがMVPに輝いている。
ブライアントは93年は42本塁打、107打点で本塁打王と打点王の打撃2冠、94年には35本塁打を放って2年連続で本塁打王に。95年オフに退団。通算259本塁打はプロ野球の助っ人では7位だ。
写真=BBM