大島さんが褒めてくれた?

表紙
現役時代、
中日ドラゴンズ、
西武ライオンズ、
千葉ロッテマリーンズで活躍した外野守備の名手・
平野謙さんの著書『雨のち晴れがちょうどいい。』が発売された。
両親を早くに亡くし、姉と2人で金物店を営んでいた時代は、エッセイストの姉・内藤洋子さんが書籍にし、NHKのテレビドラマにもなっている。
波乱万丈の現役生活を経て、引退後の指導歴は、NPBの千葉ロッテ、北海道
日本ハム、中日をはじめ、社会人野球・住友金属鹿島、韓国・起亜タイガース、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスと多彩。
そして2023年1月からは静岡県島田市のクラブチーム、山岸ロジスターズの監督になった。
これは書籍の内容をチョイ出ししていく企画です。今回はドラゴンズ時代の外野守備の話です。
■
バントを生活の手段と書きましたが、僕自身が自分の最大の武器だと思い、一番好きだったのが外野守備です。これがあったからこそ、僕は一軍に定着できたと思っています。
ついていたのかどうかは分かりませんが、当時のドラゴンズは、レフト・
大島康徳さん、ライト・
田尾安志さんと、どちらも守備にはこだわりのない人たちでした。ベンチ目線で考えても、2人の間のセンターに入り、守備範囲の広い僕の存在は大きかったと思います。
2人も、たぶん僕に甘えていました。特に大島さんです。例えば左中間に飛んで、これはレフトの守備範囲かなと思っても、レフトの大先輩は、球じゃなく、僕をじっと見ている。必死に追っていってなんとか捕ると、「よくここまで来たな!」と褒めてくれ、「大島さん、そっちが捕ってくださいよ」と言っていました。
そんなやり取りも楽しかったです。大島さんも、田尾さんも僕をかわいがってくれ、こっちも軽口もたたけたし、守備のコミュニケーションは取れていたと思います。まあ、こっちが一方的に走り回って捕っていただけとも言えますけどね。
この2人とちゃんと話ができるようになったのは、1982年に入ってからです。試合に出だした1981年は、あいさつしても適当に返されていました。ほかの先輩も
鈴木孝政さん、
谷沢健一さん以外は全員そうです。ドラゴンズだけではなく、昔のプロ野球の世界は、スタメンでゲームに出て一人前というところがありましたから仕方ありません。
一番はっきり出るのが給料です。今みたいに何億円という世界ではありませんし、1年やったらガッと給料が上がるなんて絶対になかった。3年続けて結果を出して、やっとちょろっと評価してもらえますが、3年続けるのが簡単じゃない。
ただ、僕らも先輩には「お前らいいな。簡単に給料が上がって」と言われたことがあります。「今どきの若いやつらは」というのは、どの時代でもあるようです。
※担当者が「ベースボール・マガジン社【出版野球担当】」というX始めました。興味のある方はぜひ。