“助っ投”初の沢村賞

阪神で強烈なインパクトを残した助っ人右腕だったバッキー
阪神の歴代“助っ投”の中から通算“最多勝”を確定させるのには、ライバルの
巨人と同様、長い前置きが必要だろう。プロ野球“元年”の1936年からの1リーグ時代に通算233勝を残した
若林忠志がハワイ出身の日系人だったが、28年にハワイから親善試合の遠征で初めて来日したときにも「自分の祖国が見てみたい」というのが動機のひとつだったという。巨人の
ヴィクトル・スタルヒンと同様、プロ野球の偉人という印象のほうが強い。この若林を除くと最多は通算100勝の
ジーン・バッキーとなる。もちろん阪神にとってはレジェンドではあるが、いい意味で“助っ投”として強烈なインパクトを残した右腕だった。
米国ルイジアナ州の出身だが、3Aのハワイ・アイランダースズら阪神のテストを受けて62年8月に入団した。長い手足をクネクネさせる“スネーク投法”も印象的だ。最大の武器は「行き先はボールに訊いてくれ」(バッキー)というナックル。まさに魔球で、巨人の
王貞治、
長嶋茂雄の“ON砲”も苦手とした。
ただ、見方を変えれば、もしかすると最大の武器は日本で絶対に成功するというハングリー精神だったかもしれない。当時の阪神は
小山正明、
村山実と右腕エースの二枚看板だったが、チームメートにも貪欲に教えを請うて、「僕のコントロールは小山さん、ファイティングスピリットは村山さんに学んだ」と語っている。さらに、スライダーを
杉下茂コーチから学んだことで投球の幅が広がり、小山が“世紀の大トレード”で去った64年には29勝、防御率1.89で最多勝、最優秀防御率の投手2冠でリーグ優勝に貢献、外国人で初の沢村賞に輝いている。
翌65年は巨人のV9が始まったシーズンだが、その巨人を相手にノーヒットノーランも達成するなど、巨人と阪神がバチバチのライバルだった時代を支えた“助っ投”だった。だが当時の外国人投手で最多タイとなる通算100勝に到達した68年、王に投じた危険球から乱闘に発展、飛び蹴りしてきた
荒川博コーチを殴打したバッキーは右手親指を骨折してしまう。それが回復してからも調子が戻らず、移籍した近鉄でも勝ち星がないまま、69年オフに現役を引退した。
写真=BBM