1980年代の後半、低迷する大洋で

口ヒゲと勝負強いバッティングが印象に残るポンセ
トレードマークは口ヒゲ。これが当時の少年たちに人気だったコンピューターゲーム「スーパーマリオブラザーズ」の主人公にソックリで、風貌でも親しまれたのが大洋(現在の
DeNA)の
カルロス・ポンセだった。同じ1986年に入団した
ダグ・ローマンも口ヒゲの持ち主で、2人で“ブラザーズ”を形成していたように少年たちには見えたものだが、やはり当時から人気があり、今も語り継がれているのはポンセのほう。ローマンよりも長くプレーしたことに加えて、低迷チームで輝かしい結果を残したためだろう。
ポンセの来日1年目は86年に一世を風靡した
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”も健在。助っ人に求められがちな長距離砲というよりはシュアな打撃と機動力を期待されたポンセと“スーパーカー・カルテット”、これにローマンを加えて“スーパーカー・クインテット”と呼ばれたこともあったが、加藤の故障で、そもそもの“トリオ”が瓦解。さらにローマンに続く五番を打っていたポンセの打撃は好調で、四番打者としての地位を不動のものにしていく。
その1年目こそ
阪神の
ランディ・バースが2年連続で三冠王となったため無冠に終わったものの、105打点はキャリアハイ。2年目の87年には98打点で打点王に輝いたが、タイトルを逃した打率.323、35本塁打はキャリアハイとなる。3年目の88年が33本塁打、102打点で、本塁打王、2年連続の打点王で打撃2冠だ。ただ、打率.292と持ち味のシュアな打撃は失速の兆しを見せていたのかもしれない。
翌89年は打率.264、24本塁打、81打点と、やや物足りない数字に。その翌90年には深刻な不振に陥り、遠視の矯正のためにメガネをかけて打席に立ち、「朝、手入れをしていたら面倒になった」と口ヒゲを剃ったこともあったが、メガネはともかくとして、口ヒゲに関してはゲン担ぎのようなものだったのだろう。だが、不振からは抜け出せず。オフに退団した。
とはいえ、通算5年、実質的には4年で119本塁打を残して、これはチームの助っ人では史上5位の数字だ。389打点も同じく5位。低迷期の大洋に輝かしい足跡を残した。
写真=BBM