2年連続ダイヤモンド・グラブ三塁手

72年から4年間、大洋でプレーしたボイヤー
助っ人の打者に期待されがちなのは打撃、特に長打力。特に古い時代は、まずは体格で日本人を圧倒していたから、彼らにパワーを求めてしまうのも、やむを得ないことだったかもしれない。そんな時代に、守備でファンをうならせた助っ人がいた。名門ヤンキースの三塁手だった大洋の
クリート・ボイヤーだ。
1972年、フロントとの衝突でハワイのマイナーに所属していたときにスカウトされ、来日。大洋とは現在の
DeNAになるが、当時、牛込惟浩という名スカウトがいた。日本一イヤーの1998年“マシンガン打線”で四番打者を務めた
ロバート・ローズの入団も牛込スカウトの敏腕によるものだから、その活躍は長きにわたる。他のチームに比べてトラブルメーカーが少ないのも特徴で、そんな助っ人たちの系譜の嚆矢がボイヤーといえる。メジャー時代の半分にも満たない年俸だったが、「カネで野球をするんじゃない」とファンを喜ばせるコメント。言葉だけではなく人間性も一級品で、メジャーの実績もあって当時の助っ人たちのボス的な存在にもなっている。
そして何より一級品、いや特級品だったのが三塁守備だ。三塁線のゴロをダイビングキャッチしたかと思えば片ヒザをついたまま矢のような送球を見せるなど、ボイヤーの守備を目当てに球場へ足を運ぶファンも多かった。あえて野球少年が使うような小さなグラブを用いたのは、手のひらの感覚を大事にしたためだという。捕球の形にこだわらず、「しっかりつかむ必要はない。大事なのは、いかに早く右手に持ち替えるか。ゴロは捕るだけでアウトになるわけじゃないんだから」と自身の守備について語っている。
同じく72年に入団した二塁手の
ジョン・シピンとの併殺プレーも圧巻。来日した72年はダイヤモンド・グラブ賞、現在のゴールデン・グラブ賞が創設されたシーズンで、
巨人がV9を謳歌していた時代だったが、その正三塁手の
長嶋茂雄と2年目にダイヤモンド・グラブ三塁手に。翌74年には単独で2年連続の受賞者になった。プレーは4年間だけだったが、その後はコーチとして
山下大輔、
田代富雄らを育てている。
写真=BBM