初の日本一でも放出され

78年、ヤクルト初のリーグ優勝に貢献したマニエル
現在の12球団で、前身も含めてリーグ優勝の経験がないチームは皆無。ただ、20世紀の昔は、長く歓喜と無縁のチームも複数あった。12球団そろい踏みとなったのが1979年のことで、近鉄が当時の12球団では最後を飾る初のリーグ優勝。その前年、78年にはヤクルトが初のリーグ優勝、日本一を決めている。その両方の原動力となった助っ人が「赤鬼」と恐れられた長距離砲の
チャーリー・マニエルだ。最終的には日本一の美酒を知らないまま歴史に幕を閉じた近鉄だが、80年にも2年連続リーグ優勝の快挙を成し遂げ、それにもマニエルは貢献しているから、1人で2チームにまたがる3連覇という離れ業を見せたともいえる。
メジャー経験こそあったものの、ほぼ控えだったため、入団したヤクルトでも当初は大きな期待はなかったというマニエル。実際、来日1年目の76年は平凡な成績に終わっている。だが、翌77年に覚醒。迎えた78年には39本塁打、103打点、打率.312と打撃3部門の大台を突破。その存在をなくして、ヤクルト初の歓喜はなかっただろう。だが、そのオフに
広岡達朗監督が「守れない、走れない助っ人はいらない」と近鉄へトレードで放出。これが幸いしたのかもしれない。新天地は走れなくても守る必要のない指名打者制のパ・リーグでマニエルは爆発する。

近鉄移籍1年目の79年、アゴを骨折してフェースギアを装着してプレーした
西本幸雄監督との相性もバッチリ。その79年のパ・リーグは前後期制で、マニエルの打棒は前期のパ・リーグを席巻した。だが、6月9日の
ロッテ戦(日生)でアゴに死球を受けて骨折、離脱。近鉄は急失速したが、マニエルは29試合の欠場だけでフェースギアを装着して復帰した。その姿は、まさに「赤鬼」。最終的には97試合で37本塁打を放って本塁打王とMVPに。翌80年がキャリアハイで、48本塁打、129打点、打率.325。本塁打王と打点王の打撃2冠に輝いた。
だが、そのオフの契約がまとまらず、翌81年はヤクルトへ復帰。ちなみにマニエルが去った79年のヤクルトと81年の近鉄は王座から最下位へと一気に転落したが、81年のマニエルも別人のように精彩を欠き、1年で退団、帰国している。
写真=BBM