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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】監督との確執、二軍で驚異の46試合連続ヒット…イチローになる前の知られざる「オリックス鈴木一朗」

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

週べで“篠塚二世”と紹介



「しばらくイチローの名前で続けたいです。でも、もし歳をとってもプレーを続けることができるのなら『鈴木』に戻りたいですね」(『週刊文春』1994年7月14日号)

 今から30年前、ハタチの若者はそう言って笑った。この1994年の開幕直前、登録名を「イチロー」に変更。当時、プロ3年目の背番号51は凄まじい勢いでヒットを積み重ね、シーズン210安打のプロ野球記録を樹立する。イチローがイチローになる前、いかなる2年間の駆け出しの時期を過ごしたのだろうか。これは、まだ何者でもなかったオリックス・ブルーウェーブの鈴木一朗の物語である。

 エースナンバーをつけ、高校の通算打率.501、19本塁打を記録した鈴木は、愛工大名電から1991年のドラフト4位でオリックスに入団。契約金4000万円、年俸430万円だった。実家の自室には田尾安志の色紙を飾り、小松辰雄の投球フォームを真似する地元の中日ファンだったが、オリックスが打者として評価したのとは対照的に、中日は鈴木を華奢な投手としてしか見ておらず指名を見送ったという。

 プロ野球選手になるという小さい頃からの夢がかなうと、これまでの野球漬けの日々を取り戻そうと遊びに夢中になる選手も多い中、鈴木はドラフト翌日には父親にダンベルとバーベルを買ってほしいと頼んだ。高校時代はときに要領よくサボり、決して猛練習で自分を追い込むようなタイプではなかったが、プロ1年目の初めての春季キャンプにはしっかり体を作って臨むクレバーさを持っていた。

 のちに多くの先輩選手が「最初から走る姿やキャッチボールだけでもモノが違うのが分かった」と証言しているが、実際に当時のメディアでは「鈴木一朗」の取り上げ方はどうだったのだろうか。『週刊ベースボール』1992年5月4日号の「ルーキーNOW」コーナーで、「篠塚二世の呼び声高い抜群の打撃センス誇る」と新人の鈴木一朗を紹介している。ウエスタン・リーグ開幕以来、8試合連続安打の驚異的なスタートを切った背番号51は何者なのか? 

「打ち取られるのは変化球が多いけれど、打てない球がきているとは思わない。高校との違い? ファームですから、それほどでもないですよ」

 そう淡々と語る高卒ドラフト4位ルーキーとは思えない図抜けたバットコントロールと強心臓ぶりには、根来広光二軍監督も「まさに非凡、というべきです。球をとらえることがうまい。それには天性のものがあります。左に流すのはもちろん、右に引っ張る力も持っている。加えて選球眼もいい」と舌を巻く。一方で、のちに世界屈指のレーザービームと称された外野守備からは意外にも思えるが、「鈴木の最大のネックは守備。プロの外野守備の難しさを味わっている最中だ。正確な送球も含めて、まだまだ勉強中」と課題も指摘されている。だが、キャンプでノックを見ていた名手・山森雅文が、「この選手はうまくなる。打球への反応がいいからね」とさりげなく褒めているのも興味深い。

ジュニア・オールスターでMVP


 そして、ファーム関係者の「3年後には首位打者を争える」という予言がズバリ的中というより、3年後に本当にぶっちぎりで首位打者を獲得することになるわけだが、本人は「二軍だから通用している。一軍ではこうはいかない」といたって冷静だった。『週刊ベースボール』1992年6月15日号でも、「“福本二世”に期待!!」と鈴木が紹介されている。「1番・中堅」で打率.368、盗塁数も8という俊足巧打ぶりに「将来は福本さんのような選手に育ってほしい」と球団も期待をかけた。

 身長180cm、体重75kgの細身の身体だったため、1年間は体作りでウエート・トレに励みながら二軍の試合で鍛える首脳陣のプランも、ファームであまりに打ちすぎたため、6月2日の一軍40人枠の入れ替えで急遽登録。当時流行ったトレンディー俳優・吉田栄作ばりのサラサラヘアーの鈴木は童顔で女性人気も高く、週べの読者交流コーナー「レターキャッチボール」では、「オリックス・ブルーウェーブの鈴木一朗選手に関するものを譲ってください」という熱心な女性ファンのメッセージが頻繁に確認できる。神戸の選手寮「青濤館」の406号室に住む若者は、理想のタイプには鈴木繋がりの「鈴木保奈美」を挙げ、欲しい物を聞かれると「NBAのパトリック・ユーイングのTシャツ」と答える普通の18歳の青春があった。

1年目、ジュニア・オールスターに出場してMVPを獲得した


 7月11日のダイエー戦で初出場するとプロ初打席は本原正治から二ゴロ、翌12日には「9番・左翼」で初スタメンを飾り、5回の第2打席で木村恵二からライト前へ記念すべき初安打も放った。そして、7月17日のジュニア・オールスターに選出されると、同点で迎えた8回に中村紀洋(近鉄)の代打で登場すると、ライトスタンドへ決勝のソロアーチを叩き込むのだ。ぺろりと舌を出してベースをまわる弱冠18歳の背番号51。驚異の新人は9回にもセンター前ヒットで出塁するとすかさず二盗を決めて見せ、文句なしのMVPに選ばれた。動画配信もYouTubeもなかった時代、この試合はテレビ東京で中継されており、いわば多くの野球ファンが「鈴木一朗」という逸材を初めて映像で確認した夜でもあった。

1年目にはウエスタンで首位打者にも輝いている


 MVPの賞金100万円は、「オリックスのフランチャイズがある神戸市に寄付しようかとも思っているんですよ」と初々しいコメントを残した鈴木。一軍では40試合の出場で打率.253。ウエスタンの打率ランキングでは2位以下に4分以上の大差をつけて、トップを独走。終わってみれば、238打数で87安打を放ち、打率.366で1960年の高木守道(中日)以来の高卒新人での首位打者を獲得する。ベースボール・マガジン社選定の「ビッグ・ホープ賞」にも、巨人のドラフト1位右腕・谷口功一とともに選ばれた。

 年俸は370万円アップの推定800万円に。『週刊ベースボール』1992年12月7日号では、「足も速い、打球も速い、おまけに送球も速い スピーディー・鈴木一朗は現代野球の申し子だ!!」なんてパワープッシュ。百メートル11秒台後半の俊足に投手として140キロを投げられる強肩の持ち主で、毎年なんとか3位に滑り込むも、V争いにはほとんど絡めないオリックスを変える若手だと紹介されている。

振り子打法を貫いて


 だが、土井正三監督をはじめとした一軍首脳陣は、鈴木のフォームを改造しようとしていた。土井監督は「太くて短いバットで地面に叩きつけろ」と俊足を生かしたスタイルを求め、嫌々ながらアドバイスに従う内に背番号51の打撃の形は崩れていく。2年目の3月にオープン戦の阪神戦でホームランを放つも、当時の一軍打撃コーチは「鈴木は一番にピッタリだと思っていたんだが、どうもあっさりと凡退するケースが目立つ。今の状態だと、一番は苦しいね」と四球が少ない打撃スタイルに苦言を呈した。1993年開幕戦は、「9番・中堅」でスタメン出場。2戦目には「1番・中堅」で起用された。やがて左投手がマウンドに上がるとまったく出番がなくなり、代走での途中出場が多くなっていく。

「入団二年目のオープン戦で一応三割は打っていました(※オープン戦最終成績は打率.273)。開幕9番、スタメンは当然と思っていたんですが、3打数無安打だったのに次の試合はいきなりトップ。びっくりした。それで第2打席で左中間の二塁打を打ったけど、次の打席は三塁ゴロ。結局12打席立っただけで二軍行き。あれではどうしようも納得が出来なかったですよ。なぜ僕が二軍に落ちなければいけないんだ、と思いました。納得がいきません。二軍で好成績を出して、誰が見ても一軍に上げなければいけないという状況を作ろうと、必死で結果を出していましたからね」(イチロー 素顔の青春/吹上流一郎/ワニブックス)

 そして、二軍降格したイチローはその言葉通りに打ちまくり、ウエスタン・リーグで4月25日の広島戦から8月7日の阪神戦まで、リーグ新の30試合連続安打を記録してみせるのだ(前年の6月20日から2シーズンに渡り46試合連続安打の快挙だった)。格の違いを見せつけながらもファーム暮らしの屈辱の日々の中、二軍の河村健一郎打撃コーチと作り上げていくのが、のちに代名詞となる「振り子打法」である。足でゆっくりと大きくタイミングを取るイメージで、右足と左足を交差させるフォームを考えたという。たまに一軍に呼ばれて、土井監督から「体の芯が流れてしまっているから打てない」と酷評されようが、もはや意見を聞く気はなかった。

二軍で打率.371をマーク


2年目には一軍で野茂からプロ初本塁打をマークした


 2年目は打率.188に終わったが、6月12日の近鉄戦では野茂英雄からプロ初アーチを放っている。一軍と二軍を行き来したためウエスタンの規定打席にはわずかに足りなかったものの、48試合で186打数69安打の打率.371、8本塁打、23打点、11盗塁という図抜けた成績を残したのがせめてもの意地だった。10月13日から約2カ月に渡り、同期入団の田口壮らとハワイのウインター・リーグへ。ヒロ・スターズというチームの背番号5をつけた。振り子打法は理想の形に近づき、鈴木は3割を超える打率を残し、日本人選手では唯一のベストナインにも選ばれた。このハワイで20歳の誕生日を迎え、同じ頃、土井に代わるオリックスの新監督には仰木彬の就任が決まる。打撃コーチは新井宏昌を招聘するという。そして翌春のオープン戦、新井は鈴木の才能と飛躍を確信して、「イチロー」への登録名変更を仰木に進言するのである。そのあとの男の人生は、あえてここで語るまでもないだろう――。

 NPBで9年、MLBで19年の計28シーズンの現役生活。1994年のプロ3年目に210安打を放って以降は、首位打者を獲って当たり前、メジャーでも200安打がノルマという重圧の中でプレーし続けた背番号51。2019年3月、東京ドームで現役引退を表明した45歳のイチローは記者会見で、オリックスの「鈴木一朗」としてプレーした2年間をこう振り返っている。

「最初の2年。18、19の頃は一軍に行ったり、二軍に行ったり……。そういう状態でやっている野球は結構楽しかったんですよ」

 なお、日米通算4367安打を放ったプロ人生で、本名の「鈴木一朗」として一軍で放った安打数は「36」。そして、その通算記録には含まれない、まだ無名の背番号51が二軍で積み重ねた安打数は「156」だった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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