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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】マスコミからは猛批判、原辰徳ヘッドからはベンチ裏で激怒された「2001年の阿部慎之助」

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

近未来の正捕手として入団


プロ1年目の阿部


「阿部シュン之助とか書かれたから。でも打たれてシュンとなってた、本当に。マスコミ不信になるしさ。一緒に飯食いに行っていたやつが翌日、紙面見たら叩いてたりとか、そんなだからね。(セカンドに)投げるのもサイン出すのもイップスになったよ」(見抜く力〜阿部慎之助の流儀〜/長南武・金子卓麿/双葉社)

 駆け出しの新人時代を、現巨人監督の阿部慎之助はそう振り返っている。中央大から逆指名で長嶋巨人にドラフト1位入団。ルーキーイヤーから開幕マスクをかぶり、いきなり4打点の衝撃デビューを飾ったエリート街道を歩んできた男――。そんなイメージとは裏腹に、阿部のプロ1年目は苦難の連続であった。

 父の同級生・掛布雅之に憧れた少年時代は、野球が図抜けて上手かったわけではなく、体も小さく非力でポテンヒットばかり。ポテンヒットを野球用語で“カンチャン”というので、あだ名は「カンチャンの慎之助」だった。高校受験では第一志望に落ちて、二次募集で安田学園へ進学。高校通算38本塁打を放った強打のキャッチャーとして鳴らすも、甲子園には無縁で中大への進学を決めた。2000年のシドニー五輪では初のプロ・アマ混成チーム参加となった日本代表入り。アマ球界No.1捕手として注目を集め、30代後半の村田真一に代わる近未来の正捕手を欲していた巨人入りを決断する。

 2000年11月6日に巨人逆指名会見。ドラフト会議直後の『週刊ベースボール』2000年12月4日号では早くも単独で表紙を飾り、評論家時代のデーブ大久保が阿部を直撃している。「インタビューというより、俺は、阿部が巨人について知りたいことを教えてやりたいと思って来たんだ」と私生活からプレー面まであらゆるアドバイスを送ってくる巨人OBに対して、「名球会もそうですが、あくまで個人的な意見としてですけど、モルツ球団に入れたらいいですね(笑)」なんて軽く受け流す、明るさとクレバーさが21歳の阿部にはあった。

原ヘッドの進言で開幕スタメン


キャンプ休日にはうなぎの蒲焼も体験


 当時の巨人は長嶋茂雄監督時代。地上波テレビで毎晩放送される巨人戦は日本中から注目されており、松井秀喜高橋由伸清原和博といったスーパースターが顔を揃えていた。五輪出場経験があった阿部をもってしても、いきなりテレビの世界に飛び込んでしまったような感覚に襲われたという。そんな中でも、3月3日のダイエーとのオープン戦で1号アーチを放つと、敵将の王貞治監督が「前から思っていたけど、バッティングはいい」と称賛。そして、開幕が近づくと、巨人の原辰徳ヘッドコーチは長嶋監督にある進言をする。

「阿部慎之助は将来、チームをしょって立つ選手になると思いますし、私もそのつもりで彼を育てます。従って、ひとつお願いがあります。開幕からスタメンで使ってください」(スポーツ報知阿部2000安打特別号)

 この言葉に、ミスターは「それで行こう」とうなずいたという。いつの時代も、首脳陣は若い才能に出会うとチームの将来のために優先的に起用する。それがプロ野球の常識だが、いわば特別扱いのドラ1選手への風当たりは強かった。バッテリーを組むと露骨に嫌な顔をする先輩投手もいれば、アマチュア時代より覚えるサインも格段に増え、頭はパニック状態だった。

「やっぱり今振り返っても、ものすごいプレッシャーがありましたね。原(原辰徳)前監督がヘッドコーチで、開幕戦の3日前くらいに『開幕行くぞ!』と言っていただいて。あまりの緊張で、そこから熱が出ました(苦笑)。当時は寮に入っていたんですけど、東京ドームで練習して、それから実家のほうの病院で点滴をして、っていうのを繰り返してました、開幕までの3日間(笑)」(ジャイアンツ90年史/ベースボール・マガジン社)

長嶋監督[右]、原ヘッド[左]からの期待も一身に受けた


 2001年3月30日、東京ドームでの阪神戦で巨人の新人捕手では山倉和博以来23年ぶりの開幕スタメンに起用されると、恐怖の八番打者は初打席の2点二塁打を含む4打点の大暴れ。守ってはエースの上原浩治を懸命にリードして、お立ち台に呼ばれる最高のスタートを切る。しかし、翌31日の先発マスクはダイエーから移籍してきた吉永幸一郎、3戦目の4月1日はベテランの村田真一が先発も、阿部は代打で登場すると同点タイムリー。9回裏は捕手として無死満塁の大ピンチを凌ぎ、再びお立ち台に上がった。

 4月13日の横浜戦では待望のプロ第1号を放つも、ペナント序盤は村田、吉永と併用。プロの鋭い変化球に苦しめられ、5月には打率1割台まで下がった。ピンチでマウンドに集まると、先輩野手から「お前、なんちゅう配球してんだよ!」とどやされる。情けなくて悔しくて、試合後のロッカールームで涙を流したこともあった。寮生活は規則だらけで、球団も金の卵の阿部に対しては他の選手より厳しく管理する。まだスマホのない時代、気分転換に新聞や雑誌を開こうものならば、目に飛び込んでくるのは自身に対する容赦ない批判記事である。当時の長嶋巨人の主力選手は、一挙手一投足をメディアから追いかけられる立場だった。いわば1979年生まれの阿部は、球界が巨人中心に動いたジャイアンツ・アズ・ナンバーワン時代を知る最後の世代でもある。

「自分でもわかっている部分はあるのに、それに追い打ちをかけるように批判される。しかもどのスポーツ紙をめくっても、必ず『阿部批判』が書かれている。人生経験を積んできた今ならまだしも、マスコミに叩かれることに対して免疫のない、当時の僕にしてみたら、これは相当に精神的なストレスになりました」(阿部慎之助の野球道/阿部慎之助・橋上秀樹/徳間書店)

過酷な環境で必死に食らいつき


偉大な先輩がチームにそろうなかで捕手として必死にプレーした


 マスコミ慣れしていない22歳の若者には酷な環境だった。今のSNSようにアスリート自ら手軽に発信する手段もなく、不満と不信感だけが積もっていく。だが、阿部は必死に食らいつき、バットで結果を残す。8月1日の中日戦では、東京ドーム右翼席中段へ36試合ぶりの5号満塁アーチ。当初苦しんだ変化球にも打つポイントを前に置くことで対応し、8月は2試合連発を含む6本塁打の固め打ちで二ケタ本塁打に到達する。それでも、首脳陣は次代の正捕手を育てるため、ディフェンス面も徹底的に鍛えた。

「今でも入団1年目のベンチ内を思い出すことがあるんですけれど、僕の後ろには長嶋監督と原ヘッドコーチが仁王立ちしていたんです。僕が試合でミスをしたり、大量失点したりすると、原さんに首根っこをつかまれて、ベンチ裏に連行されて、こう言われたことがありました。『お前さんは、この試合がどういう試合なのかわかっているのか?』。僕はただただ、『はい! すみませんでした!』としか言えなかった」(阿部慎之助の野球道/阿部慎之助・橋上秀樹/徳間書店)

 43歳の指導者タツノリも、チームの末っ子キャラの慎ちゃんもまだ青く若かった。2001年シーズン、巨人はペナント終盤に追い上げを見せるも首位ヤクルトには及ばず、2位で終え連覇ならず。阿部は規定打席には6打席足りなかったものの、13本塁打は田淵幸一以来2人目の新人捕手シーズン二桁本塁打となった。のちに通算2132安打、406本塁打を記録する「巨人史上最強キャッチャー」も、1年目は打率.225からのスタートだった。その年限りで、ついに長嶋監督は退任、村田真一も現役引退へ。いわば捕手の世代交代を完了させた上で、原辰徳新監督が就任するわけだ。その後の原巨人の栄光の歴史は、そのままキャッチャー阿部慎之助の全盛期でもある。

 プロ1年目の長嶋監督や原ヘッドとの出会い、そして先輩捕手の村田は、まだ俺はやれるという思いを持ちながらも、組織の将来を考え、ルーキーの自分に自身の役割を託してくれた。時が流れ、阿部は当時の村田と同じ30代中盤に差し掛かった頃のインタビューで、先輩への感謝を口にしている。

「村田さん(村田真一)とは今、選手とコーチの関係のほうが長くなってしまったんですが、よく言ってくれるのは、『お前が一人前になってくれたし、オレは辞めて良かったと思う』と。前年(2000年)、日本一になっているキャッチャーじゃないですか。村田さんにもプライドがあったと思う。でも、ヒョコッと来たガキんちょが、レギュラーで出てね……。今となっては、そう話してくれるので、良かったなと思うんですが、だからこそ、村田さんのためにも、もっと頑張らなければいけないなと思いました」(ジャイアンツ80年史 PART4/ベースボール・マガジン社)

文=中溝康隆 写真=BBM
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