どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 自然と熱烈な阪神ファンへ

プロ1年目の岡田
「とにかくリストがいい。それほど大きくない体で、あれだけ飛ばすのは強じんで、しかも柔らかいリストがあるからだ。バッティングというのは練習でできるものではない。天性だ」(週刊ベースボール1979年9月16日増刊号)
巨人の
長嶋茂雄監督は、そう絶賛したのち、「ウチも是非ほしい選手だ」とラブ
コールを送った。1979(昭和54)年のドラフト会議は、ひとりの大学生内野手に注目が集まっていた。東京六大学で通算20本塁打を放ち、歴代1位の打率.379、81打点をマークした早大のスラッガー
岡田彰布である。当時史上最多の6球団が競合、本人の希望通り
阪神タイガースが交渉権を獲得する。
大阪で紙工業を営む岡田の父親は、阪神の選手たちを支援していた。いわゆるタニマチである。岡田少年が家に帰ると、
村山実や藤本勝己がいたり、
三宅秀史とキャッチボールした際には、「お前は指が短いし、投手より野手のほうがいい」とアドバイスをもらったという。アンチ巨人の父の教育とその特殊な環境で、岡田も自然と熱烈な阪神ファンへとなっていく。
「甲子園にも足しげく通った。巨人戦は特に熱くなった。座席は三塁側ベンチの後ろ。目の前に
王貞治さん、長嶋茂雄さんが現れる。そこを目掛けて、ヤジる。三塁側でそんな子供はいなかったもんやから、目立っていたわ」(幸せな虎、そらそうよ/岡田彰布/ベースボール・マガジン社)
野球をプレーしたのも、父が作った紙職人たちが集まる草野球チームが始まりだ。しかし、22歳の岡田は阪神もしくはパ在阪球団を希望する一方でクレバーだった。ファンの立場とプロとしてプレーするチームは別だと考え、当時三塁手を固定できていなかった巨人が“ポスト長嶋”として獲得に動くと報じられると、「巨人もいいですね」と大人の対応をしてみせる。それどころか79年の正月に見た初夢は、「GIANTSのユニフォームを着たぼくが山倉(和博)さんと並んで神社の階段をランニングしていたんです」なんて記者にリップサービスまでするのだ(79年ドラフトで巨人はサード
中畑清が育ってきたこともあり、社会人投手の
木田勇に1位入札)。
「ルーキーを最初から試合起用することはない」

79年秋のドラフトで6球団競合の末、阪神に入団
その性格やキャラクターもプロ向きで、ドラフト直後から大阪の岡田フィーバーは加熱する。背番号16、契約金6500万円のゴールデンルーキー。だが、ひとつだけ問題があった。阪神の三塁には、79年に48本塁打を放ち、ホームラン王に輝いた2つ年上の新たなミスタータイガース
掛布雅之が君臨していた。実は、戦力面で即戦力のサード岡田を唯一必要としない球団が阪神と言われていたのである。岡田は日米大学野球では遊撃を守ったこともあったが、ショートは前年にトレード獲得した
真弓明信が売り出し中だ。内野のポジションは二塁か、一塁しかない。岡田の父も息子の守備位置に頭を悩ませ、指名挨拶の席で球団関係者に「合宿所に入らず自宅から甲子園球場に通わせて、三塁手として使ってほしい」と異例の条件を出したほどだった。
本人もそれに呼応するかのように、1月の合同自主トレで「サードの岡田です」と挨拶。主砲とのポジション争いに挑む覚悟だったが、
ドン・ブレイザー監督はルーキーのコンバートを考え、さらに2月のアリゾナキャンプ中に元
ヤクルトの内野手
デーブ・ヒルトンを獲得するのだ。岡田の一塁転向が現実味を帯びるも、ヒルトンは肩を故障しており一塁しか守れないことが判明したため、背番号16の外野起用までが取りざたされる。話が違うじゃないか……岡田本人もキャンプ中の週べインタビューで戸惑いを口にしている。
「セカンドなんか、絶対守れんと思いますよ。守りに神経使うでしょ。(中略)ドラフトで決まった時、インタビューでいったじゃないですか。最初からコンバートされるのはいやだって……」(週刊ベースボール1980年2月25日号)
関西ではすでに岡田のレギュラー起用前提の報道が先行し、小津正次郎球団社長も国際電話で「岡田を使え」と進言するも、ブレイザー監督の答えは「ルーキーを最初から試合起用することはない」とつれないものだった。大阪出身の岡田にとって地元阪神ファンの期待は痛いほどに感じていた。
「(ファンを)裏切らないように頑張らなければ……。ぼくの入団、ちょっと反響がすごすぎたでしょ? 2~3年ガマンしてレギュラーの座につくとか、そういう立場じゃない。最初から出場してもあたりまえという感じが周囲にあるでしょ」(週刊ベースボール1980年2月25日号)

79年から阪神を率いていたブレイザー監督
打撃ではその内角もまったく苦にしないバットコントロールを絶賛されるも、いかんせん守るところがない。開幕一軍入りを果たしたが、ブレイザーの評価は「右の代打で五番手ぐらい」と手厳しいものだった。この扱いに虎党の不満が爆発する。本拠地でヒルトンが打席に入ると、なんと自チームの助っ人に向かって当てつけのように「オカダコール」が浴びせられたのである。これには阪神コーチから「あれではヒルトンがかわいそうだ」と同情の声があがるほどだった。背番号16は、開幕から4試合目の大洋戦(甲子園)にようやく代打で初出場するも、
平松政次の前にあえなく空振り三振。球団が外国人選手の獲得をブレイザーに委嘱していたため、自分が連れてきた助っ人を優先的に使うのだと週刊誌では報道され、帰宅するヒルトンが乗るタクシーをファンが取り囲む騒ぎもあった。まだSNSやメールがない昭和の時代、球団事務所にはファンから抗議の電話も殺到。岡田自身も、この異様な状況に心を痛める。
「つらかったなぁ。いやだったなぁ。もうぼくにしてみれば、ベンチに座っていて、いてもたってもおられん気持ちだった。ヒルトンもつらかったと思いますよ。そりゃぼくが打席に入っているなら、ああいう声援にこたえないかんと思うけど、ぼくはベンチに座っているんですから……。耳をふさぎたかった。ああ、早く“本当の岡田コール”を聞いてみたいとつくづく思ってました」(週刊ベースボール1980年5月26日号)
中西体制でハツラツとプレー
監督から「基本が間違っている」と指摘された守備を改善するため、岡田は試合前に
安藤統男コーチとマンツーマンで泥にまみれて特訓する。一軍登録にもかかわらず、実戦感覚をなくさないように早朝に合宿所を出ると、朝9時から甲子園で練習して、11時半開始の二軍戦に「三番サード」で出場。4月9日のウエスタン
中日戦では、左中間に3ランアーチを放ってみせた。試合を見に来ていたブレイザー監督は、「ナイスバッティング」と声をかけてくれたという。
4月18日、掛布が左ヒザの故障で戦線離脱したことにより、岡田に出場機会が回ってくる。実はウエスタンの試合で右肩を痛めていたが、ついに回ってきたチャンスだ。22日の大洋戦に「八番・三塁」で初先発。そして、5月1日の巨人戦。2回裏、
新浦寿夫のカーブをとらえ甲子園の左中間のラッキーゾーンに運ぶ1号3ランを放つのだ。11試合、32打席目に飛び出した待望のプロ初アーチ。さらに岡田に追い風が吹く。5月10日に打撃不振のヒルトンが退団。15日にはブレイザーも自分の関与しない新外国人選手の獲得に怒り、電撃辞任。代役監督は
中西太コーチが務めた。掛布が復帰すると、中西監督は二塁で岡田を起用。本人も春先とは違い、コンバートに前向きなコメントを残している。
「やってやる……いやオレはやれるんだという気持ち。以前に、ファーストだ、いや外野だといわれたときの気持ちとはまるで違う。あのときはまだ試合に出られるかどうかわからなかったでしょ。だから、不安ばかりがつのりますよね。今は、試合に出場するための二塁守備ですから、出られるんならやってやろう……そういうことです」(週刊ベースボール1980年5月26日号)

掛布[上]との“KOコンビ”に阪神ファンは大いに沸いた
ゴールデンルーキーは以降レギュラーに定着すると、阪神の新時代を担う掛布と岡田の“KOコンビ”誕生とファンは騒いだ。もちろん、チームを去ったブレイザーにも言い分はあっただろう。ルーキーは、アメリカのようにマイナーリーグで経験を積んでからメジャーに上がるものだと考えていたのだ。
「ファンと新聞記者は彼(岡田)をプレーさせたがっていた。正直私はこれほどの無理強いがあることは想像もしていなかった。それにファンの人々も私の意図をくんで理解してくれるだろうと考えていた。もちろん、後楽園の巨人戦で掛布がケガに倒れてから大きなプレッシャーが始まった」(週刊サンケイ1980年5月1日号)
どちらかが正義で、一方が悪という単純な話ではない。上司と部下、それぞれの野球観がある。だが、岡田は中西体制でハツラツとプレーした。この年の掛布は怪我がちで、背番号16のポジションは二塁と三塁で流動的だったが、本塁打も二ケタに乗り、甲子園の観客動員数も岡田人気で過去最多を記録する勢いだった。ファン投票で選出されたオールスターでは第1戦で代打3ランを放ち、MVPを獲得。なおこの試合で先制ホームランの王貞治は現役最後の球宴となった。
ブレイザーからのメッセージ

1年目は18本塁打を放ち、新人王に輝いた
時代の変わり目で輝く背番号16。8月19日の
広島戦でセ・リーグ通算2万号のメモリアルアーチとなる13号を放つなど、夏の長期ロードで打率.297まで上昇させ、打順も五番に上がった。ルーキーとしては長嶋以来22年ぶりの規定打席到達での打率3割も現実味を帯びてくる。8月下旬に蜂窩織炎でリタイアするアクシデントもあったが、9月18日の広島戦で2安打を放ち、打率3割に到達。しかし、ペナント最終盤に打撃を崩し、規定ちょうどの403打席で打率.290、18本塁打、54打点、OPS.820でプロ1年目を終えた。それでも見事に新人王に輝き、岡田彰布の長いプロ生活が始まるわけだが、そのあとの男の人生は、あえてここで語るまでもないだろう。
ドラフトで6球団が競合した六大学のスターで早大出身のエリート選手のイメージも強いが、プロ入り当初は監督の意向もあり、なかなかチャンスを与えられず、ときに二軍戦で泥にまみれてキャリアをスタートさせた意外な過去――。後年、ブレイザーの親しい人物から、あるメッセージが届いたことを岡田は自著で明かしている。
「オカダよ。何もキミが憎くて使わなかったのではない。期待され入団してきたルーキーであるから余計に起用法を考えた。余分な力みを生まない、楽なところから使ってやりたかった。だから、時期がずれたのだ。リラックスしてゲームに入れるように、と考えた結果なのだ。憎かったわけじゃない。それを最後に伝えておくよ」(頑固力 ブレないリーダー哲学/岡田彰布/角川新書)
文=中溝康隆 写真=BBM