「稲尾になると全部僕だった」(米田)
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は再び1956年、阪急に入団した米田哲也さんの話を抜粋します(一部略)。
この年、鳥取・境高から阪急に入団したのが米田哲也だ。1年目から先発ローテ入りし、9勝15敗。のち「この年あと1勝していたら20年連続2ケタ勝利だったんですけどね」と言っていたことがある。快速球とヨネボールとも言われたフォークを武器に、ガソリンタンクの異名を取った通算350勝の右腕だ。
同年、米田は新人ながら中西を12打数2安打と抑え、現役通算でも打率.238と相性は悪くない。中西は南海の
皆川睦男(のち皆川睦雄)らアンダースロー投手をやや苦手にし「下手投げでインコースを突かれると打ちにくい」と話していたが、オーバースローからの速球で攻めてくるタイプは得意だった。
米田は例外と言ってもいい。
2024年で86歳を迎えた米田に電話をすると、「最近、少しヒザが痛いんですよ」とは言っていたが、「散歩は日課。途中公園でちょっと体操してね。元気は大切ですから」と声は明るい。中西全盛期に対戦経験がある貴重な証人でもある。
「中西さんを抑えている? その印象はないな。とにかく体の柔らかい人でした。ふにゃふにゃしていましてね。抑えるコツはインコースのスライダー、今で言うフロントドアです。ただ、これも紙一重で、甘くなるとホームランです。バクチですよ、バクチ。でも当時の阪急は打線が弱かったし、バクチでもやらなきゃ勝てなかった。
西鉄は強かったですからね。一番の
高倉照幸さんから始まり、まったく気が抜けない。なかなか勝てなかった。でも、僕はそんな打たれたわけじゃないですよ。とにかく味方が打てないんです。特に稲尾(
稲尾和久)ですね。僕が入ったとき、うちは
阿部八郎さんという左ピッチャーがエースだったんですが、稲尾になるとどうせ勝てないからと投げん(笑)。みんな僕です。
0対1とかそんな試合ばかりで、覚えている限りですが、唯一接戦で勝ったのが自分でサヨナラホームランを打った試合だったと思います(1963年8月26日、西宮)」
米田は同学年の稲尾を「悪魔のようだった」と言ったことがあるが、確かに稲尾に奪われた勝ち星は少なくなかった。
中西は現役時代に対戦した好投手として
宅和本司(南海)、米田、
梶本隆夫(阪急)を挙げ、「米田君はフォークがよかったな」と言っていた(編集部注:南海・
杉浦忠については「素晴らしい投手だったが、ワシの終わりのほうだからな」と言っていた。杉浦は58年入団。中西が故障せずに当たったのは1年だけとなる)。
ただ、フォークは米田が入団から10年ほどかけ、じっくりと自分のものとした球種であり、実戦で使ったのは中西の選手生活晩年となる。