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【高校野球】「公立の雄」を率いた相模原高・佐相眞澄監督が辞任 継承される「KENSO」の魂

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「保護者の協力」があってこそ


相模原高・佐相監督は同校グラウンドで、関係者を前に辞任の報告をした[写真=BBM]


 神奈川県立相模原高校で結果を残せた要因。佐相眞澄監督は「保護者の協力」を挙げた。

「保護者は大切な存在です。保護者と顧問が密になっていれば、生徒は間違いなくついてくる。グラウンド内の設備拡充のほか、さまざまな環境整備をしていただきました。こうしたバックアップが背景にあって、力をつけてきたチーム。スカウティングした子はいません。タイミング良く、力が合わさったときに、県上位へと進出することができました」

 12月22日。佐相監督は辞任を表明した。午前10時から現役の保護者向けにアナウンスし、11時からはかつて指導した新町中、大沢中、東林中、川崎北高の卒業生、卒業生の保護者に報告。指導最後の日に合わせて、グラウンドには200人以上の関係者が集まった。内訳はむしろ教え子よりも、元・保護者のほうが多く、人望の厚さを示していた。

「中学で24年、高校で22年。46年間、野球の指導と生徒指導ばかりしてきました。多くの人と巡り合えたのは宝。こうして集まってくれたのは宝です。あらためて、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました」

05年から高校野球界へ


相模原高のグラウンドには3校の中学軟式野球時代と川崎北高、相模原高の卒業生、保護者ら約200人が集まった[写真=BBM]


 1958年生まれ。神奈川県相模原市出身。法政二高では四番・中堅、左の強打者として高校通算20本塁打を放った。日体大では4年秋の首都大学リーグ戦を制し、明治神宮大会で初優勝を経験した。卒業後は保健体育科の教員で新町中、大沢中(92年の全日本少年3位)、東林中(97年の全中8強、98年の全中3位、2001年のKボール全国優勝、世界大会3位)で実績を残した。中学軟式の指導現場では、高校で通用する選手育成に主眼を置いてきた。

 05年からは高校野球界へ転じて「打倒・私学」「甲子園一勝」を公言。卓越した打撃理論を前面に「打ち勝つ野球」をテーマに、激戦区・神奈川で本気の勝負を挑んできた。

 川崎北高では07年秋に県4強に進出すると、08年のセンバツ21世紀枠の県候補校に推薦された。快進撃は続く。08年夏は8強、09年夏も5回戦(16強)に進出した。12年春の相模原高へ異動すると、14年秋に県4強、15年春には県大会準優勝で関東大会に駒を進めた。18年夏の北神奈川大会8強、そして、19年夏の準々決勝では4年連続甲子園出場をかけた横浜高に逆転勝ちし、同校の夏の選手権の最高成績である4強(3位)へと導いた。

「自信を持たせるのも私の仕事」と、強力なネットワークを駆使し、県外の強豪私学と練習試合を重ねた。「戦う前から怖気づくことはなくなった。対等に向かえるだけの心身を築けました。弱くても毎年、組んでいただいた学校さんには、本当にありがたいです」。

学校正面玄関内のショーケースには左から2019年夏の県3位、15年春の県準優勝、14年秋の3位のカップが並べられている。すべてが、佐相監督の功績である[写真=BBM]


 時代とともに、アプローチも変えてきた。

「科学的、理論的に、生徒に納得させながら指導していかないといけない。それに加えて基礎的な体力、気力も必要です。ときには不適切にも程がある理不尽な練習も入れていかないといけない。厳しいことも言ってきましたが、のちに卒業生は『高校時代があってここまで来られました』という声を聞き、指導の方法は間違っていなかったと思います」

 部訓は「束になれ」。相模原高は県下屈指の進学校であり、県相(けんそう)として親しまれている。野球部からは東大、横浜国立大、筑波大のほか、早慶などの難関私大に入学。「神奈川県立の雄」としての礎を築いた。佐相監督は60歳以降、再任用として指導を続け、65歳で定年となった昨年4月以降も、外部指導者として指揮。躍進をし続ける「KENSO」のシンボルであった。

ステージ4のがんの宣告


 血気盛んだった佐相監督の体調に異変が起きたのは、今年の3月末だった。春先以降、体重が落ち、6月に病院で検査を受けると、ステージ4のがんの宣告を受けた。本格的な治療をスタートさせたが、抗がん剤治療が最もきつかったという。それでも、体が動くときは高校生を指導。夏の神奈川大会はベンチで指揮したが、秋の県大会は「起き上がれない……」と試合会場に行くことができなかった。

 辞任を決断した。ひとまず、一区切りである。

「高校野球は面白かったです。軟式野球にはないスピード、迫力がある。監督のさい配がそのまま出る。ボールのいたずらがないですからね(苦笑)。『四天王』(横浜高、東海大相模高、慶應義塾高、桐光学園高)には、一つしか勝てませんでした。強豪私学に追いつけなかったのは体力、140キロ超の真っすぐ、鋭い変化球への対応力。この冬も、さらなる体力強化に励んでおり、後任の先生、コーチがしっかりとやってくれると信じています」

他校の監督も感謝


朝一番には、県内の高校の指導者があいさつに訪れた。左から横浜高・村田監督、佐相監督、横浜高・渡邉陽介コーチ、厚木北高・森山純一監督[写真=BBM]


 この日の朝一番には今秋の県大会、関東大会、明治神宮大会を制した横浜高・村田浩明監督があいさつに訪れた。20年3月まで神奈川県立白山高校を指揮。日体大の後輩でもある。

「19年夏。相模原高校さんが横浜高校に勝ったとき、私は(県高野連の理事として)公式記録を担当していました。勝たれた姿を見て、歴史が変わったな、と。公立高校を指導していたとき、目指す指導者は佐相先生でした」

 佐相監督は「白山高校はライバル校。村田監督とは話をしたこともありませんでした。(就任以降)この春の県大会4回戦で初めて対戦しましたが、敗退。私のことを気にしていただいてうれしいです。目標にまでしてくれていたとは……」と感慨深く語った。この日は県内の高校野球、県外の中学野球指導者も同校へ訪問し、佐相監督に感謝を述べていた。

三塁ベンチには「甲子園二勝」の目標。「佐相イズム」は受け継がれていく[写真=BBM]


 まずは、治療に専念する。「まだ66歳なので、長生きして、野球界に貢献したいと思います」と、現場復帰への青写真を描いている。

「しっかり治して、野球界に戻ってきたい。野球の底辺拡充をしたい思いがあります。今年の夏は、これまでなかった甲子園大会をテレビで見る機会があり、新たな発見がありました。プレミア12でも、学びがあった。また、戻る。それしかないです。それがあるから、頑張れる。野球から力をもらっています」

 闘病生活の支えは、白球をきっかけにつながりを持った「人」という財産もある。監督辞任の報告では、いつまでも教え子、保護者たちの列が絶えず、写真撮影に応じていた。一方で、グラウンドの左翼付近では現役の1、2年生が元気にウエートトレーニング。相模原高の不変の目標は「甲子園一勝」であるが、三塁ベンチには「甲子園二勝」の貼り紙もあった。この冬、さらに意識高く、取り組んでいるのだ。佐相監督が育成してきた「KENSO」の魂は、次世代へと継承されている。

文=岡本朋祐

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