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「夢のようです」後進の励みになる元NPB審判員・富澤宏哉氏の野球殿堂入り

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米国へ自費留学


93歳。富澤氏は通知式では杖をつき、自分の足で歩き、喜びを話した[写真=高原由佳]


 言葉に実感がこもっていた。

「長生きできて本当に良かったと思います」

 1月16日、野球殿堂博物館で「2025年野球殿堂入り通知式」が行われ、特別表彰で元NPB審判員の富澤宏哉氏が選出された。1931年7月25日生まれの93歳。この日の通知式に出席し、賞状を受け取ると、何度も頭を下げて、感謝を示した。杖をつき、自分の足で歩き、冒頭のように、喜びの言葉を述べた。

 富澤氏は社会人野球の審判員で活動し、1955年にセ・リーグの審判員となり、在籍35年で通算3775試合、日本シリーズ9回、オールスターゲームに9回出場した。72年には米国のアル・ソマーズ審判学校に自費留学し、帰国後は最先端のアンパイア技術を日本のプロ野球界へと持ち込んだ。80年にセ・リーグ審判部長に就任すると、審判員の米国への留学制度を確立させた。入局したばかりの多くのNPB審判員が「登竜門」として経験を積んだ。

 89年に同部長を退任後は野球規則委員、全日本軟式野球連盟顧問(審判技術担当)、全日本野球会議審判技術委員会委員として活動。プロ・アマの審判スキル向上に貢献した。2013年には、NPBアンパイア・スクールが開校。富澤氏が築いてきた功績を、後輩たちが「日本版の審判学校」として形にしたのである。

 野球殿堂博物館を通じてコメントしている。

「35年間の審判生活では数多くの好ゲームに立ち合わせていただきました。中でも1977年に王貞治選手が、ハンク・アーロン選手の大リーグ記録を超える通算756本塁打を達成した試合で球審を務めたことは強く印象に残っています。今日はその王さんも列席(イチローのゲストスピーカー)されており、感慨深いものがあります。93歳で、こんな幸せな日を迎えられるとは夢のようです」

常に毅然とした態度で


かつての後輩のNPB審判員に囲まれる。至福のときだった[写真=高原由佳]


 ゲストスピーカーのNPB規則委員・友寄正人氏は「厳しい審判員だった」と語った。若い頃、熱血指導を受けたと明かしている。

 甲子園での試合後、富澤氏の宿泊先を訪れ、教えを請うた。ルールの質問に対して中途半端に返答すると「貴様、帰れ!」と叱られた。友寄氏は夜中に25分、歩いて帰った。しかし、富澤氏はフォローも忘れなかった。すぐに、手紙を書いた。「申し訳なかった。ただ、審判は安易な答えをしてはいけない」。

「ゲームのたびにテーマを持ってやりなさい、と。48年、その言葉をずっと受け継いできました。今年で94歳。殿堂入りされた中で(健在時に選ばれた)史上最高齢と聞いています。これまでのご尽力に感謝し、功績を継承していかなければならない」

 昭和から平成にかけて、審判員の世界では「上下関係」が確立されていた。令和になっても、統率された組織は不変。先輩からの言葉は、絶対だ。しっかりとした準備、責任感、緊張感を持たなければ、グラウンドに立つことはできない。友寄氏はこの日も毅然としていた。審判員と同じく背筋をピンと伸ばし、スピーチする姿が印象的だった。審判員の絆は深く、通知式にも多くの後輩が祝福に訪れた。

 審判員が陽の目を見ることは、あまりない。1試合、正しくジャッジして当たり前である。目立つのは、微妙なプレーの判定で、抗議を受けるシーンなど……。1試合、休む間もなく、過酷で、なかなか報われない仕事である。日々のトレーニング、ルールの勉強を含めて選手同様に、プロ意識は相当高い。アマチュア球界を含めて、審判員は「人材難」と言われて久しいが、富澤氏の野球殿堂入りは、後に続く人たちにとって励みになったはずだ。

文=岡本朋祐

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