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中西太、優しき怪童

『中西太、優しき怪童 西鉄ライオンズ最強打者の真実』/18 元阪神・吉田義男さんは言う。「われわれの世代では長嶋茂雄、王貞治、張本勲に先んじ、太さんはプロ野球を盛り上げた大功労者じゃないですか」

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「同期でこんなすごい選手がおるんかなと思いました」(吉田)


中西太、優しき怪童』表紙


 2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。

 書籍化の際の新たなる取材者は吉田義男さん、米田哲也さん、権藤博さん、王貞治さん、辻恭彦さん、若松勉さん、真弓明信さん、新井宏昌さん、香坂英典さん、栗山英樹さん、大久保博元さん、田口壮さん、岩村明憲さんです。

 今回は突然の訃報が飛び込んだ吉田義男さんにお話をお聞きした際の箇所です。ご冥福をお祈りいたします(一部略)。

 2018年8月18日、100回記念となった夏の甲子園大会の始球式記念大会の始球式の際、久びさに顔を合わせたのが、長年の友・吉田義男だった。ご存知、「牛若丸」とも言われた阪神タイガースの名遊撃手で、1985年、阪神日本一の監督でもある。

「太さんが亡くなられてもう1年ですか……。寂しいですね。コロナもあったんで、お会いしたのは、あのときの甲子園が最後でしたかな。一緒に写真も撮ったんですよ」

 吉田とは2024年5月27日、大阪梅田の新阪急ホテルでお会いした。

 当時90歳。テレビの試合解説は時間が長いので断っているというが、日刊スポーツの評論家としては現役。記憶も分析力もまだまだシャープだ。

「われわれの世代では長嶋(長嶋茂雄巨人)、王(王貞治)、張本(張本勲。東映ほか)に先んじ、太さんはプロ野球を盛り上げた大功労者じゃないですか。腱鞘炎やらがなかったら、ものすごい記録をつくったと思いますよ。僕は、そう思いますわ」

 中西と吉田は同学年で、出会いは吉田が山城高、中西が高松一高時代にさかのぼる。

「当時、京都の平安と山城、高松一高と穴吹(穴吹義雄。のち南海)がおった高松商がセットになって行ったり来たりしていたんですよ」

 高校野球人気が今より高く、甲子園の常連校が各地から招かれるなど、交流試合が盛んだった時代だ。

「最初、太さんを見たのは高松でしたが、びっくりしましたわ。同期でこんなすごい選手がおるんかなと思いました。肩が強くて、体は大きいんですが、ものすごく敏しょうでしたわ。打球はフォームがどうこうより、あのライナーです。私のときは幸いそんな打球はありませんでしたが、球が飛んできた内野手は怖かったでしょうね。高松の人たちも、太さんが傑出した能力を持っているのを知っていたんじゃないですか。球場は超満員で拍手が多く、人気はものすごかったですよ」

 吉田は山城高2年夏に甲子園出場。中西は1年春夏、3年夏だからすれ違いとなる。

「太さんともよく話したんですが、夏の甲子園は客席が真っ白で、内野フライが見えづらいんですよ。あとは浜風ですね。今は、ずいぶん埋め立て地が広がってきましたが、昔はもう少し球場の近くまで海があった。高い建物もなかったし、風はそんなに優しくなかったから、フライがものすごい捕りづらいんですよ」

 中西は高卒での西鉄入り、吉田は立命大を1年で中退しての阪神入りで1年遅い。セ、パに分かれ、公式戦の対戦もなかったが、ウマが合い、会った際は話が弾んだ。

「こっちは太さん、向こうは、よっさん、よっさんと言ってくれましてね。食事に行ったとかそういうわけじゃないですが、いろいろ話すようになりました」

 吉田は1953年の阪神入団当初、セカンド・河西俊雄の控え的な扱いだったが、強肩堅守が注目され、ショートのスタメンに抜てきされた。日系人の与儀真助がサードに入り、ミスタータイガース、藤村富美男がファーストに回った年でもある。

 同年本塁打、打点の2冠となっている藤村だが、年齢は37歳。慣れないポジションでもあり、時に吉田の俊敏な動きからの伸び上がるような送球をはじいてしまうことがあった。

「球界も世代交代の時期でしたね。巨人でも廣岡(廣岡達朗)さんが1年あとに入団してショートに入り、ファーストが川上(川上哲治)さん、僕は藤村さんで、太さんが田部(田部輝男)さんでしょ。皆さん、ベテランの功労者でした。詳しいことは知りませんが、太さんも苦労されたようですし、廣岡さんも川上さんがワンバウンドを捕ってくれないとか、いろいろあって大変だったらしい。僕もあちこち投げたら、藤村さんが『こらー!』ってね(笑)。

 でもね、それを技術の進歩に結びつけた。太さんもそうだったと思いますよ。いいところに投げなきゃとなったし、腰からヒザくらいの高さなら一塁手がはじいても僕らのエラーにはならんのです。だから藤村さんがはじくと、ひそかにほくそ笑んでいました。それだけいい球が行っているということですからね」

 2人の入団以降、1950年代は西鉄が4度の優勝も阪神の優勝がなく、1960年代に入って阪神が1962、64年と2度のリーグ優勝も、西鉄は中西兼任監督の下での1963年のみと、高校時代の甲子園同様、完全にすれ違いとなっている。

「太さんは指導者に早くなられたでしょ、28歳かな。優勝は一度されていますが、腱鞘炎もあって苦労されたと思います。一生懸命やっているのに怠けて休んでいるみたいに言われましてね。僕はプレーイングマネジャーには昔から不賛成ですわ。村山(村山実。阪神のエース)もそうだったし、当時の流行みたいなところがあったけど、選手寿命を縮めたんやないかと思います。プレー一本でやったら、太さんは、もっとすごい記録をつくったんやないですか。私はそう思います」

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