来日1年目に助っ人トップの174安打

来日1年目から安定感ある打撃を披露した
1994年にプロ野球で初めてシーズン200安打を突破する210安打を放ち、打率.385で首位打者に輝いたのが、さきごろ日米で野球殿堂入りを果たした
イチロー(当時
オリックス)。20世紀が終わるとともに海を渡ったのだが、それまでの7年間は、ずっと首位打者だった。当時のパ・リーグは“イチロー時代”といっても過言ではないだろう。そんなイチローの牙城を脅かした1人が近鉄の
フィル・クラークだった。来日1年目、そして近鉄の本拠地が大阪ドームとなった97年に174安打を放ち、打率.331をマーク。最後こそ引き離されたものの、9月にはイチローに6厘差まで迫った好打者だった。
この97年に来日2年目を迎えていたのが
タフィ・ローズだ。2001年に55本塁打を放った長距離砲だが、まだ当時は中距離ヒッター。1年目から抜群の安定感を見せたクラークが四番打者を務めることが多かった。クラークの174安打は来日1年目の外国人選手では最多の数字だが、その打棒が光ったのは8月24日の
ロッテ戦(大阪ドーム)だ。ロッテは序盤から打ちまくって2回までに10点を挙げて大量リードも、そこから巻き返したのが近鉄“いてまえ打線”で、9回裏に同点とすると、延長12回裏にクラークのサヨナラ本塁打で逆転勝利。10点差の逆転劇はプロ野球3度目、パ・リーグでは初めてのことで、クラークも「こんな経験は大リーグでもないよ!」と声を弾ませた。
翌98年は自己最多の31本塁打、114打点も、特筆すべきはシーズン48二塁打だろう。これは当時のプロ野球ではトップ。170安打で打率.320と、安定感も健在だった。これで一塁手として2年連続ベストナイン。翌99年には成績こそ下げたものの指名打者としてベストナインに選ばれている。だが、2000年は死球禍で骨折、離脱して66試合の出場に終わり、オフに退団した。それでも近鉄の助っ人としては通算93本塁打は歴代5位、同324打点は3位の数字として残る。クラークが去った翌01年が最後のリーグ優勝となったことでインパクトが薄れた感はあるが、近鉄の歴史で忘れてはならない助っ人だ。
写真=BBM