ケンカ腰のコーチミーティング
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回も再び近鉄コーチ退団後、
巨人コーチ時代の話です。(一部略)。
1991年途中から巨人の臨時打撃コーチ、1992年からは正式にコーチとなった。高松一高時代に対戦し、日本シリーズでも名勝負を繰り広げた
藤田元司監督からの誘いだった。
中西からいつも名前ではなく「おい、広報!」と呼ばれていたのが香坂英典だ。中大から投手として巨人に入団し、選手としては大成できなかったが、打撃投手、先乗りスコアラーを経て、1992年から現場広報になった。
清原和博、
松井秀喜をはじめ、多くの選手から信頼された男だ。
香坂の広報初仕事とも言えるのが、同年年明けのスタッフミーティングだったが、ここで前年1991年にドラフト1位で入団していた
元木大介を一軍のグアム春季キャンプに参加させるかどうかで藤田監督と中西が激論となった。
藤田監督は「連れて行こう」と言うのだが、中西は「まだ二軍で鍛えるべき」と一歩も引かない。プロ2年目を迎えるホープではあったが、1990年の1年間の浪人生活もあり、一軍キャンプはまだ早いと思ったのだろう。互いに言葉がどんどん激しくなり、なかばケンカ腰となった。
ヤクルト退団時の
荒木大輔をめぐるトラブルにも似ている。
「すべての年のコーチミーティングを見てきたわけではありませんが、僕が知るなかでは、あんな激しい会議は最初で最後です。中西さんの絶対に引かない信念を感じました」
2人は仲が悪かったわけではない。むしろ逆だ。ふだんは2人だけで長く話し込んでいることも多かった。
同年、香坂は多摩川の練習で2人が話している言葉がたまたま耳に入ったことがある。ある選手の打撃練習を見ながら、「こいつのバッティングはすごい」と口をそろえて絶賛していた。
それがデーブ大久保こと大久保博元だ。ドラフト1位で1985年に
西武に入ったキャッチャーだが、正捕手・
伊東勤の存在もあってなかなかチャンスに恵まれず、この年途中、巨人に移籍したばかりだった。
大久保にも中西の思い出を尋ねた。
「西武時代、周りからは同じライオンズで、しかも体格が中西さんに似ているということから中西2世と言われたこともありますが、打力も走力も実力自体もまったく違うので、本当に恐れ多いという思いしかなかったですね」
太めの体型から西武時代は常に体重を落とせと言われ続け、それが強いストレスになっていた大久保だが、巨人でまず中西に掛けられた言葉が印象に残る。
「太っていてもええんじゃ、どんどん食べろと言ってくれた。プロに入ってそう言ってくれたのは中西さんと藤田さんだけです」
打撃に関しては、『ボールを見て打てばいいんや』『しっかりボール見ろ』と言われた。
八重樫幸雄、新井宏昌への指導とも重なるが、大久保に対してはスタンスや外のとらえ方まではなく、目線だけのアドバイスだった。
「そのためには投手に両目を正対させることが大事だと説かれていました。実際、僕はそれまで外のスライダーが見えなくなることがあったんですよ。
両目を正対させるには、打席に立ったときに、『最初にショートのほうに胸と両目を向けてそっちを見る(大久保は右打者)。それからピッチャーを見れば、両目でボールがしっかり見られるようになるよ』と言われました。よく『最初から片目だけでボールを見てしまったら小学生のボールでも打てんよ』と言われていたことを覚えています。
本当に熱血漢で、指導の熱量がすごかった。ティーバッティングをしていると、中西さんの体がドンドン僕のほうに近づいてきて、トスを上げる右手がバットに当たりそうになるんですよ。『いいぞお! いいぞお!』って言いながらね。それもすごく思い出に残っています」
大久保は同年、巨人の強打の捕手として脚光を浴び、引退後も複数球団でコーチ、さらに
東北楽天ゴールデンイーグルスでは監督にもなっている。
2010年、中西と、当時やはり「中西2世」とも呼ばれていた西武・
中村剛也と対談してもらったとき、「わしの孫弟子のようなもんだから」と言い、「君はデーブに教わっているから分かっとるじゃろうが」と何度も言っていた(中村は大久保が西武の打撃コーチ時代にブレーク)。
自分の教えが次の世代に継承されているのがうれしかったのだろう。
このとき中村に、「無理してやせることはいかんぞ。食事を控えたら気力、体力がしぼんでいくからな。ホームランを打っているうちは好きなだけ食えばいいよ」とも言っていた。