仰木彬監督からのラブコール、近鉄の物語をもう一度
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は
オリックスのコーチ時代の話です。(一部略)。
仰木彬は近鉄バファローズ監督を退任したあと、1994年からオリックス・ブルーウェーブの監督になったが、1年目を終え、「また助けてもらえないでしょうか」と中西に直接連絡してきた。
「あの年(1994年)のオリックスは
イチローの活躍はあったが(当時のシーズン新記録210安打を達成)、優勝はできなかった(2位)。仰木君も次はなんとしても優勝と思っていたんだろうね。おそらく近鉄のときの物語を、と思ったんだろう。
わしも年やし、もうええやろと一度断ったんだが、なんとかやってほしいと。結局、オリックスでは全体を見てほしいと言われ、ヘッドコーチになった。
ただ、ちょうどでっかいポリープが大腸に見つかって、1月12日に神戸で予定していたスタッフ会議には出ず、手術をして、しばらく休んどった。本当は予約がいっぱいで手術は後回しにするはずだったが、あの大投手の
金田正一さん(国鉄-
巨人の400勝投手)がキャンセルしたらしいよ。
そしたら17日にあの(
阪神・淡路)大震災や。行っていたらどうなったのかな」
大混乱のなか、1月の球団行事は一切なくなり、2月の沖縄・宮古島の春季キャンプが初合流となった。
そこで驚いたのが、イチロー人気のすさまじさだ。
「彼目当てのファンがたくさんいて、キャンプから担当者がついて別行動だった。仰木君とわしは、ホテルから半ズボンで球場に向かって、警備員に止められていたのにな(笑)。その子も監督とヘッドコーチと聞いてびっくりしてたよ。
当時のイチローは、まだまだ子どもだったが、いろいろな指導者との出会いもあって、振り子打法という自分のスイングが出来上がり、相当な自信もあった。シャープな日本刀で斬るようなスイングだったね。低めを拾うように打つのがうまかったが、高めが弱点ではあった。
彼は少し体が硬いが、悪いことだけではなく、それでスイングの際の中心線が崩れない。柔らかく体を使いたいということでケアもしていた。トレーニングのあと、だいたいの選手はシャワーだけだが、一人で風呂にゆっくり入って、出たら入念にストレッチをしていたからな。大したものだと思って黙って見ていたよ。
わしはイチローのバッティングに対し、ああしろこうしろと言ったことは一度もない。守備は言ったよ。動き、肩はいいけど、時々、送球がシュート回転になったり、ばらけた。ホームにノーバウンドと思うと、なおさらそうなるんだ。だから練習では返球をカットマンに正確に投げるようにうるさく言った。いいコースにいい球が来たら、カットマンがスルーすればいいんだしね。
1球でやめさせたこともある。練習で何度投げても悪い形では仕方がないし、いい球が来たら来たで、それでよし! と。打撃も同じだよ」
イチローの打撃に何も言わなかった理由を尋ねると、「新井君がいたからな」と言った。当時のオリックスでは近鉄時代の教え子・新井宏昌が打撃コーチとしてイチローを指導していた。(続きます)