「今の苦労は将来の礎を築くためにやっているんだよ」
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は
オリックスのコーチ時代の話をもう1回追加します。(一部略)。
田口壮はドラフト1位で1992年にオリックスに入団。当初はショートだったが、スローイングに難があり、
仰木彬監督に言われ、1994年途中、外野に転向。中西のコーチ就任はプロ4年目となる。
2024年はオリックスの外野守備・走塁コーチ。話を聞いたのは、同年2月20日、オリックスの春季キャンプ地である宮崎市内の宿舎だった。
「僕は宮古島のキャンプで中西さんと初めてお会いしました。第一印象は自由にやらせてくれるなということですね。自分の思っていることをやらせていただいて、そのなかで、しっかり振りなさい、練習量を増やしなさいと言っていただきました」
中西の打撃指導で面白いなと思ったのは、「とにかく引っ張れ」と言われたことだったという。
これもまた、中西がほかの教え子たちに掛けた言葉とは少し違う。
「普通は逆方向からというコーチが多いんですが、中西さんは、『バッティングをつくり上げるには引っ張らなくてはならない』と言われました。いつも大きな声で『一気にしっかり振りなさい』『バンと振れ』と言っていましたね。言葉だけじゃありません。ティーを15分から20分したあと、ケージで20分、30分、自ら、これを打ちなさいと緩~い球を投げてくれる(笑)。60歳は越えていたと思いますが、ほんとお元気でした」
前年の1994年にレギュラーの一角をつかみ、打率.307をマークしていた田口だが、まだまだ自分の打撃を確立していたわけではなく「ふらふらしていた」と振り返る。オリックスには外野のライバルはたくさんいた。せっかくつかみかけたチャンスを逃したくないという思いは強く、中西のエネルギッシュな指導に必死に食らいついた。
「キャンプだけでなく、試合日の練習前の早出でもずっとです。真夏の神戸のグラウンドでも『やるぞ!』と汗だくで投げていただいた。『今のうちにやっておけ』とよく言われました。中西さんだって疲れているはずなのに、ゲームに入ったら入ったで大きな声で励ましてくれるんですよ。もう感謝しかないですね」
1995年は初めて規定打席に到達したシーズンでもある。
「まだ1年間を通して戦ったことがなかったので、どうしていいか分からないところがありました。太さんに、だい~ぶ励まされましたね。技術面というより、どうしても途中でへばってくるんですよ。結果も出なくなるし。しかも、あの年、夏に脇腹を痛めてテーピングで固めて1カ月やっていました。めちゃくちゃ痛くて……。今なら肉離れと診断されると思うんですけど、休みたくないんで隠してやっていました」
田口も怒られたことは一度もなかったという。
「練習では『よし、いいぞ』といつも言っていただいたし、試合で打ち取られても、いい当たりならOK、バッティング内容がよかったらOKと言ってくれました。結果はあとからついてくる、と言っていただき、すごく励みになりましたね」
心に残った言葉が「何苦楚(なにくそ)」だ。
「何苦楚と思って歯を食いしばっていくんだ、今は苦しんだほうがいい、今の苦労は将来の礎を築くためにやっているんだよという話は、最初のころからしていただきました」
田口はこの言葉をずっと大切にし、2002年からのメジャー挑戦時にも心の支えにした。
2001年にシアトル・マリナーズに移籍し、いきなり首位打者に輝いた
イチローとは違い、マイナー生活も経験しながらの波乱万丈の日々だった。それでも、まさに何苦楚の心でレギュラーの座をつかみ、8年間のメジャー生活のなかで2つのチャンピオンリングを手にしている。
現役時代から『何苦楚日記』と題したブログの執筆や同名の書籍も出しており、何苦楚を世に広めた功労者? の一人と言っていいだろう。
「面白いもので、今は息子(アメリカに野球留学中)まで何苦楚と言っています(笑)」
ここでも絆がつながっている。
「いい打席には◎が書いてありました」
田口は毎年正月、中西家にクッキーを贈るのが恒例になっていた。
「届くと中西さんから電話が掛かってきて、おお、元気かあ、と言っていただき、そのあと少し話をする。それが新年の行事のようなものでした。具合が悪いのも知らず、昨年(2023年)も電話で同じように話しました。少し元気なかったですけど、まさか、こんなに早く……。妻(恵美子さん)もアナウンサー時代にお世話になっていたんで、会いに行っておけばよかったって2人で言っています」
コーチとなった今、中西の影響は? と聞くと、「たくさんありますよ。太さんの懐の深さ、純粋さ、真っすぐさ。ああいうふうにありたいなといつも思います。僕も太さんのようにずっと選手と一緒に汗をかきたいな、と思っています。肩を痛めちゃって太さんのように投げられませんが、それはいつも思っていることです」
中西は教え子たちにいつも「君」をつけ、違う時代の話をしていても「××君もそうじゃった」と、しばしば例に挙げた(イチロー、デーブといったカタカナの選手と、あとはなぜか近鉄時代の教え子には君をつけなかった選手が多い)。そのなかで登場回数が多かった一人が、「田口君」だった。
「だとしたらうれしいですね。僕より素晴らしい教え子の方はいくらでもいますが、僕は優等生だったかもしれません。体力だけはあったんで、毎日食らいついていきましたから」
はにかむような笑顔を見せた。
何苦楚以外で言われた印象的な言葉を尋ねると、少し迷った。
「何苦楚以外なら、う~ん……。『大丈夫だ』ですかね。アウトになって帰ってきても大丈夫だ、でした。当たりは悪くない。大丈夫だ。次、頑張れと。僕はヒットでも凡打でも、打って終わったら、太さんのところに行って聞くことが多かったんです」
中西が細かく書き込んだノートを見ながらも話すことも多かった。
「凡打をしても、『この打席も、この打席も内容はよかったんだ、見てみい。だから、いつかヒットになるはずだ』って」
中西のノートには選手全員の全打席の結果が書いてあった。
「いい打席には◎が書いてありました」
そう言って笑った。
中西の笑顔と重なった。