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【プロ1年目物語】地獄から天国…緊急入院から真夏の本塁打量産! 野茂英雄の新人王ライバル!? 石井浩郎

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どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

キャンプ直前に急性肝炎の診断


近鉄1年目の石井


 この男ほど、プロ1年目から“天国と地獄”を味わった新人選手は、他にいない。

 近鉄バファローズでプレーした石井浩郎である。冊子『少年野球 秋田球児、60年の歩み』では、1978年の第44回大会の決勝戦に、八郎潟中学の「三番・三塁」として出場する当時中学2年の石井の名前が確認できる。巨人のサード長嶋茂雄と早大のスラッガー岡田彰布に憧れた少年は、進学校の秋田高から早大に現役で合格。幼少期は“ゴボウ”とからかわれた細い体を毎日の鉄アレイで鍛え上げ、強打の内野手として鳴らし、社会人のプリンスホテル時代は全日本の四番を打った。1989年の都市対抗野球ではチームを優勝に導き、身長183センチ、体重84キロのプロ注目の大型スラッガーへと成長。1989年ドラフト会議では広島カープ入りが確実視されるも直前で指名回避され、近鉄から3位指名を受ける。同期の近鉄1位は史上最多の8球団競合の末に仰木彬監督が引き当てた、あの野茂英雄(新日鉄堺)だった。なお、89年の社会人野球ベストナイン(スポーツニッポン新聞社制定)は投手が野茂、三塁手ではスポニチ大会で3本塁打を放った石井が選出されている。

早大からプリンスホテル[写真]でプレーし、近鉄へ入団した


 1964年生まれで25歳の石井は、もちろん即戦力を期待されてのプロ入りだった。しかし、自主トレ中に体がやたらと疲れると思ったら、サイパンキャンプ直前の健康診断で急性肝炎と診断され大阪北区の行岡病院に緊急入院。さらに直後に追い打ちをかけるように風しんにもかかり、4キロも痩せてしまう。焦りと悔しさから看護師の目を盗み、病院の屋上でバットを振ったが、「もう今年は無理だろうな……」と絶望的な気持ちになったという。春先からキャンプ不参加で大きく出遅れ、金属バットから木製バットに変わったことにより飛ばない打球にも戸惑い、中西太ヘッドコーチや小川亨打撃コーチは腕力だけではなく、下半身の回転で打つよう徹底的に指導した。

 元全日本の四番のスケールに首脳陣も強化指定選手として大きな期待をかけ、背番号3をもらった新人も出遅れを取り戻そうと懸命にバットを振った。開幕から約1カ月でウエスタン・リーグのトップを走る5本塁打を放ち、5月8日のダイエー戦で「七番・DH」として一軍デビュー。だが、2三振を含む4打席ノーヒットに終わり、そこからプロの壁にぶつかる。同期の野茂が三振の山を築くのとは対照的に代打で19打数2安打と低迷。一軍のピッチャーの球は違うと過剰に意識しすぎる真面目な性格の石井に対して、野球評論家の東尾修は「ピッチャーってのは、どんなエースでも1球は必ず、甘い所にくる」とアドバイスを送った。そんな悩める和製大砲の待ちに待ったプロ初アーチは、デビュー戦から約2カ月後の7月4日のダイエー戦、大阪球場のバックスクリーン横に飛び込む初打席から24打席目の一撃だった。

 さらにその試合でレギュラー三塁手の金村義明が、ダイエーの山内孝徳から右手親指に死球を受けて離脱。結果的にこの金村の怪我が、石井の野球人生を変えることになる。翌5日から指名打者や代打ではなく、「七番・三塁」で先発出場。すると2回の第一打席で村田勝喜のスライダーをとらえレフト最上段へ2号先制2ラン、四球を挟んで第三打席にも左中間へ第3号を叩き込み、前夜の最終打席から新人史上初の3打数連続アーチを記録するのだ。

落合博満の再来という声も


ジュニアオールスターでMVPに輝いた


 ここから遅れてきたルーキー石井の快進撃が始まった。なんと7月だけで長嶋茂雄(巨人)、清原和博(西武)の持つ新人記録に並ぶ月間9本塁打を放ち、月間MVPを獲得する。さらにジュニアオールスターでは、石毛博史(巨人)からの同点3ラン含む2本の本塁打を放ちMVPに輝く。賞金の半分の50万円を気前よく姉にプレゼントしてみせた。ニュース番組では、当時のトップアイドル宮沢りえの始球式と、9回表に神宮球場のバックスクリーンに突き刺した石井の劇的な同点アーチの映像が繰り返し流れた。一躍、時の人になった石井は、『週刊ベースボール』の人気コーナー「松沼雅之のオト松見参! 球Qトーク」にゲストで登場。春先の病気での出遅れを「今思えば、アレがよかったんですよ」と振り返っている。

「退院して、ファームの試合にずっと出してもらったんです。もう野球が面白くて面白くて。ずっと病室のTVでキャンプ情報なんか見てて、野球出来るのはイイナーって思ってたスからね」(週刊ベースボール1990年8月27日号)

 そして、プロでも「毎日が都市対抗の予選で、第3代表のガケッぷち」の気持ちで打席に立つ背番号3は、「何故こんなに打てるのか、自分でもわからない」と首をひねりながらもレギュラーに完全定着。8月上旬には四番でも起用され、プロ入り当初はその飛距離に驚いたブライアントジム・トレーバーら、強打の外国人選手とともにクリーンアップを任せられた。藤井寺球場わきの球友寮では、石井がホームランを打ったり、野茂が勝った夜は新人同士でビール片手に祝杯をあげる光景がおなじみだったが、球宴後には石井が新人王レースの野茂の対抗馬とまで報じられるようになる。社会人経由の26歳の新人スラッガーという経歴と同じ秋田出身ということで、落合博満(中日)の再来という声すらあった。

清原以来の新人20ホーマー


 この1990年のペナントレースはセの巨人とパの西武が前半戦から独走。近鉄もAクラス確保が現実的な目標で、週べでも「消化試合を少しでも面白く観戦するために…あの人の『コレ』が見たい!」という特集が組まれているが、そこで取り上げられるのが「“遅れてきた平成の剣豪”石井浩郎の30ホーマー」である。

「ONから、山本浩、田淵を経て落合そして清原。プロ野球を彩ってきた剣豪たちの系譜。ファンはこのヒーローの豪快な一発に夢と希望を見てきた。“平成の剣豪”石井に期待するものは大きい」(週刊ベースボール1990年9月24日号)

 驚異の新人は郭泰源西崎幸広ら、パ・リーグを代表するエース級から一発を放ち、開幕から出ていたら50発以上は楽に打てるハイペースと騒がれる。一軍デビュー後、わずか3カ月足らずで、石井は始まったばかりの平成を代表するスラッガーを期待される打撃を見せたわけだ。9月には虫歯に悩まされるも、11日のオリックス戦で藤井寺のバックスクリーン左横に叩き込み、1986年の清原以来の新人20ホーマーに到達。近鉄の新人では球団初の快挙だった。

 石井の1年目の最終成績は、86試合(319打席)で打率.300、22本塁打、46打点、OPS1.015。新人王は投手タイトルを独占した野茂が受賞するも、石井も野手としては初めてパ・リーグ特別表彰を受けた。90年代の近鉄は、投の野茂と打の石井がチームの中心になるであろうという予感通り、その後も“いてまえ打線”の中心として1993年には147安打を放ちリーグ最多安打に。1994年には打率.316、33本塁打、111打点で打点王を獲得。リーグトップの得点圏打率を誇る無類の勝負強さは球界最高の四番打者と称され、西武黄金時代の象徴・清原を抑えて、2年連続で一塁手ベストナインにも選ばれた。その清原と同僚になった巨人移籍後は、日本テレビ系列の情報番組『ザ・サンデー』の「拝啓、石井浩郎です」コーナーが人気に。30代になると度重なる怪我に泣かされたが、現役晩年に日米野球のNPB代表選出のファン投票で清原や小笠原道大(日本ハム)らセ・パの強打者たちを抑えて、一塁手部門で最多得票を集めたこともあった。

 そのドラマティックな野球人生が多くのファンから支持された石井浩郎のキャリアの原点は、プロ1年目にあった。肝炎と風しんで出遅れ、木製バットのプロの壁にぶつかるも、レギュラー選手の死球で回ってきたチャンスをつかみ、真夏にホームランを量産した激動の日々。わずか数カ月の間に地獄から天国まで味わったルーキーは、その渦中にこんな言葉を残している。

「野球をやってて、これだけツイてないことが続くっていうのはなかった。プレー上のケガだと、まだ納得がいったんですけど。この半年の間に地獄と天国を両方見たっていうか。健康体で野球ができるっていうのは天国ですよね」(週刊ベースボール1990年8月13日号)

文=中溝康隆 写真=BBM

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