西鉄の仲間たちとの別れ
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は西鉄時代の仲間たちを見送ったときの話、後編です。(一部略)。
時は残酷であり、公平でもある。
2000年代半ば以降、盟友の訃報が相次いだ。
仰木彬は2005年に死去。前年、
オリックスと近鉄が合併という仰木自身にとってもおそらくはショッキングな事態が起こり、あえてバッシングもあった合併球団オリックス・バファローズの初代監督を引き受けた。
すでに自身のがんは分かっていたようだが、それを周囲には隠し、1シーズンを戦い終えて退任し、すぐ亡くなった。
中西のショックは大きかった。
「寂しいとかつらいとか、ありきたりの言葉では表せない。何をどう言っていいか分からんよ。見舞いに行くと言ったんだが、『それより春季キャンプにまた若い選手を教えに来てほしい』と言われた。病床でもずっとオリックスのことを考えていたんだね。『そろそろいいこともありますよ』と言っていたから、これからのチームに希望を持っていたんだろう。
監督としてはいい息子をたくさん育てた。彼は選手の個性を尊重して売り出すことがうまかった。
イチローがメジャーに行ったとき、一番心配し、活躍を一番喜んでいたのも仰木君だと思う。
それともう一つ気にかけていたのは大阪ドームの観客動員だった。『満員にしたい。どうしたらファンに大阪ドームに来てもらえるか』といつも考えていた」
2007年、仰木同様、西鉄時代の部屋子でもあった後輩・
稲尾和久も逝った。
「何年か前、仰木君と稲尾君と3人で五島列島に出掛けたときがある。あのとき2人はまだ元気だった。寝たふりをしている私を横目に夜中までビールを飲んでいたよ」
西鉄の青春時代と同じだ。一人寝ていた中西の部屋に、朝方、酒臭い2人が足音を忍ばせ、帰ってくる。声を潜めながらも、酒席の話を思い出す笑い声もあった。目が覚めることもあった中西だが、いつもそのまま寝たふりをした。
後輩というよりは弟に近い2人だった。2人も同じだったと思う。兄のように慕い、時に甘えた。その関係はずっと続いた。
豊田泰光も2016年に亡くなり、2018年には当時ライオンズOB会会長をしていた
高倉照幸も死去。そのとき中西は「わしもすぐ死ぬぞ、と言ったが、ほかにおらんと言われてな」と、一時期だったが、OB会会長に就いている。
中西に取材をお願いすると遺言のような話になることがよくあった。ただ、決して後ろ向きではない。
2013年、79歳のときの言葉を紹介しよう。
「野球やっていて、ほんといろんなことがあった。でもな、わしはなんの後悔もないよ。野球を通した財産がたくさんあるからね。人のつながり、家族もそうじゃ。選手のときのライバルが指導者時代の仲間になったり、不思議な巡り合わせもたくさんあった。ほんと幸せな男だと思うよ。
現役の選手や監督、コーチに教え子がたくさんおって、時々、教えに来てくれとこんなじいさんに声を掛けてくれる。わしの教え子が、わしの教えたなかから一つでもいいと思ったことを継承してくれたらいい。それで若い選手をしっかり育ててほしいと思ってる。
長生きすると、いろんな人に出会うし、いろんなつながりができる。いま思うのは、本当に野球一筋、野球バカで一生を終えることができてよかったということや。チームメートもそうだし、コーチとして、監督として、いろんな球団のいろいろな選手と出会った。全部財産や。監督としてはへぼでたくさん失敗もしたけど、監督を助け、選手を育ててということでは、やれたと思うよ。幸せな男や。
それにな、評価は自分でするもんやない。わしみたいに棺桶に足を突っ込んだじじいに、誰かが、そういえば、あのとき、こんなことを言ってくれたな。あの言葉はありがたかったなと思い出してくれたらそれで十分や。自分で自分を褒めたたえる人も多いが、そんなの意味はないよ。
野球は奥深い。わしは今もダルビッシュ(
ダルビッシュ有。当時テキサス・レンジャース。現サンディエゴ・パドレス)と対決している夢を見るからな。あんなでかくて、球種もたくさんある投手をどうやって打とうかって悩むんや。起きたあとはコーチとして、どうやって打ち崩せるように教えようかって考える。きりがないな」