“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 きっかけは度重なる故障

1997年、近鉄から巨人に入団した石井
「一番困るのは、(スタメンで)いくのか、いかないのか試合直前までわからないときでしたね。僕は不器用な選手ですから、昔くさいと笑われるかもしれませんが、“気合”でしか自分を作れないんです。球場についてから、いきなりスタメンと言われても僕みたいなタイプにはつらいですね」(週刊ベースボール1999年11月29日号)
1999年秋、現役引退したばかりの
小早川毅彦との対談で、巨人時代を語るのは、
ロッテへのトレード移籍が決まった直後の
石井浩郎である。小早川から「巨人での3年間は遠回りだったと思うか?」と聞かれると、「う〜ん、僕は遠回りとは思いませんね。巨人での、調子が良くても試合に出られないという経験が、僕の中の甘さを消してくれたと思いますから」と言葉を選びながら、石井は不完全燃焼だった東京生活を振り返っている。
アマチュア時代の石井は早大から、社会人のプ
リンスホテルへ進み、1989年の都市対抗野球ではチームを優勝に導き、全日本の四番も打ったプロ注目の大型スラッガーだった。1989年のドラフト会議で近鉄から3位指名を受けると、1年目から球団新人記録を更新する22本塁打を記録。いてまえ打線の四番を張り、1994年には130試合にフル出場して、打率.316、33本塁打、111打点、OPS.1.001という好成績で打点王に輝いた。93年と94年は
西武黄金時代の象徴・
清原和博を抑え、一塁手部門で2年連続のベストナインにも選出されている。そんなリーグを代表する四番打者が、なぜ巨人へ移籍することになったのだろうか。

1996年は開幕2戦目で左手有鈎骨を骨折し、シーズンを棒に振った
きっかけは、度重なる故障だった。1995年に右足踵を骨折するも、四番連続出場記録にこだわる首脳陣の意向で強行出場を続けた。夏場には左手首の腱鞘炎に悩まされ47試合の出場に終わった石井は、1996年も開幕2戦目で左手有鈎骨を骨折。球団指定の病院で受けた術後の回復が思わしくなく、全国の医者を訪ね歩いたが、痛みの原因が分からず復帰予定が大幅に遅れてしまう。結局、シーズン中の戦列復帰はできず、96年11月15日の契約更改では手負いの選手会長に対して、1億2500万円から、減額制限を超える60%減の年俸5000万円プラス出来高が提示されるのだ。理由を聞くと、「君には(今年の)実績がないんだし」という信じがたいものだった。石井は「昔の近鉄には情があったが、それもなくなった」とコメントを残し、手首の再手術をするため知人に紹介されたロサンゼルスのセンチネラ病院へ渡米したが、近鉄球団の反応は「渡航費用や治療費用は負担できない」とつれないものだった。
一連の騒動に近鉄の上山善紀オーナーが「石井君にはガッカリした」と不快感を露わにしたが、他球団の選手は石井に同情的な意見がほとんどで、労組選手会は「石井選手を自由契約にすべき」という要望書を近鉄に提出する。それでも、
佐々木恭介監督は「石井には来季、戦力として期待しているんだ。早く帰ってきてほしい」と国際電話で説得。任意引退になるのを避けるため、帰国後にもう一度交渉の席に着く約束を取り付け、保留者選手名簿に掲載することを発表した。
5球団が獲得競争に参戦
しかし、筑間啓亘球団社長が参加した12月11日の交渉も60%ダウンの提示条件は変わらず決裂。石井は涙を流しながら、「社長に退団の希望を伝えた。この気持ちは1カ月前も今も、これからも同じで変わらない」と近鉄との決別を宣言した。コミッショナー事務局からも、「近鉄から再三にわたって問い合わせがあり、その都度説明したのにまた60%減なんて信じられない」と疑問の声が上がったという。安く契約して他球団に高く売りつけようとする大阪商法トレードと揶揄されたが、すぐさま大砲を探す複数球団が石井獲得に名乗りを上げる。
日本ハムとの
落合博満の争奪戦に敗れて四番打者を探していた
ヤクルト、同じく「四番・一塁」の清原がFA移籍した西武ら5球団が興味を示すも、12月20日に巨人が名乗りを上げたことで風向きが変わる。巨人の石山建一編成部長は、石井にとって早大の先輩でプリンスホテル時代に監督を務めた恩師でもあった。

1997年1月17日、都内ホテルで巨人入団会見が行われた[右は長嶋監督]
1997年の年が明けると、石井は年俸調停を申請する。吉國一郎コミッショナー裁定で、近鉄側が30%ダウンの年俸8925万円に切り替え一度契約を交わしたあと、トレード交渉に入った。最終的に
島田直也と
進藤達哉を準備した横浜、元ドラ1サウスポーの
杉山賢人を交換要員に挙げた西武、そして
石毛博史と
吉岡雄二をリストアップした巨人の争いとなったが、1月10日にゴルフを楽しんでいた石毛の携帯電話が鳴る。巨人の編成担当からである。東京ドーム前の後楽園飯店へ移動後、トレードが言い渡されると、石毛は一旦返事を保留するも、「行くしかない」と腹を括った。1997年の1月14日に近鉄と巨人の両球団から交換トレードが正式発表されるが、その直後に石毛は石井とジャイアンツ球場で偶然会い、会話を交わしている。
「顔を合わせるなり石井さんが、『悪かったな』って言うから、『いや、そんな。石井さんが謝ることじゃないですよ』って言ったんです。本当にそう思っていましたから。それに、トレードで僕にも吉岡にもすごいチャンスがきたわけですから。その意味では何の問題もなかったわけです。『お互い頑張っていきましょう』。こう言って、石井さんと握手をして別れました」(元・巨人 ジャイアンツを去るということ/矢崎良一/廣済堂文庫)
実はこの時、当事者の選手だけでなく、想定外の緊急トレードに現場の首脳陣も混乱していた。97年1月17日、都内のホテルで行われたスタッフ会議で、
土井正三内野守備コーチは石井について、「サードを守らせるしかない。だって一塁にはちゃんと(清原が)おるやろ」と歯切れの悪いコメントに終始した。落合を放出してまで、FAの清原のために一塁のポジションを空けたのに、さらに一塁が本職の石井までも入ってきたのだ。19日に来日した新外国人選手のルイス・
サントスは、「エッ、イシイ? 誰なんだ? どこのチームのどんなプレーヤーなの?」と三塁を争うライバルの出現に驚いてみせた。
巨人在籍時のキャリアハイは11本塁打
前年の長嶋巨人はメークドラマで逆転リーグVを飾るも、日本シリーズで
イチロー擁する
オリックスに1勝しかできず敗退していた。長嶋茂雄監督は、「石井の左手首は時間がかかると思うよ」と前置きした上で、「サードゴロなんて1試合に5〜6回しか飛んでこない」とあくまで日本一奪回に向けて、攻撃重視の重量打線の実現にこだわった。新天地で石井は、落合が付けていた「背番号6」を継承したが、当時のパ・リーグ球団と巨人のあまりの注目度の違いに戸惑いを隠せなかったという。
「やはり近鉄とはまったく違いましたね。移籍して最初の春季キャンプが宮崎でありました。驚いたのは、キャンプ中の紅白戦が日本テレビで全国中継されたんですよ。その試合の始球式を、当時のヴェルディ川崎の監督が務めたんです。公式戦ではなく、オープン戦でもありません。キャンプ中のチーム内の紅白戦で、ですよ。こんな世界があるのかと」(ベースボールマガジン2022年11月号 1988-1992 仰木近鉄 美しき猛牛魂)
32歳のリスタートを切った石井
は、3月20日にジャイアンツ球場で355日ぶりのフリー打撃を行い、100スイングで柵越えは6本。4月29日のイースタン・リーグ西武戦で394日ぶりの実戦出場を果たすも、左太もも肉離れにも見舞われ一軍復帰には時間を要した。巨人は総額33億円の大型補強で臨むも清原やルイスが打撃不振に陥り、ロッテから移籍の
エリック・ヒルマンは左肩の違和感で戦線離脱。ペナントレース序盤からヤクルトの独走を許し、6月下旬に最下位に沈むチームの起爆剤として一軍に呼ばれたのが、石井だった。

勝負強い打撃は健在だったが、体は満身創痍だった
6月25日の横浜戦で胃腸炎による欠場の清原に代わり、「五番・一塁」で初出場初スタメン。2打数ノーヒットに終わるも、翌26日の1点をリードされた9回表、大魔神・
佐々木主浩の149キロの速球を右中間スタンドに叩き込む。起死回生の同点アーチは、石井にとって771日ぶりのホームランでもあった。28日の
中日戦では、第65代四番打者として起用され、清原復帰後も「四番・三塁」が石井の定位置となる。その後、23試合に渡り四番を張り、長嶋監督は「石井は勝負強い。あれは何か持ってるね」と信頼を口にした。しかし、8月2日の
阪神戦で、二塁へ走り込んだ際に再び太ももを痛めて戦線離脱。結果的にこれが97年の石井のラストゲームとなる。巨人移籍1年目の打撃成績は、25試合で打率.333、1本塁打、14打点、OPS.825というものだった。
その勝負強い打撃には誰もが一目置いたが、33歳の石井の体はすでに満身創痍だった。巨人2シーズン目の1998年は自主トレ終盤に左ふくらはぎ肉離れを発症。オープン戦中盤には右肩痛にも悩まされた。98年7月29日のヤクルト戦で代打満塁弾、翌99年4月15日の
広島戦では代打逆転サヨナラアーチを放つなど時折勝負強さは見せたが、3シーズン目の11本塁打、32打点が巨人在籍時のキャリアハイとなった。1999年のチームは開幕後に
ドミンゴ・マルティネスを補強するなど、最後まで大型補強の中で、石井の出番は限られたものとなってしまった。そして、99年オフに
河本育之との交換トレードでロッテへ移籍する。
確かに、近鉄時代の実績から考えると、期待はずれともいえる成績に終わった巨人時代の石井だが、日本テレビ系列の週末朝の情報番組『THE・サンデー』内で『拝啓、石井浩郎です』が毎週放送され、その人気と知名度は全国区となっていく。これもまた当時の長嶋巨人の圧倒的な注目度がもたらした副産物だった。のちに選挙を戦い、国会議員として活動することになる石井浩郎にとって、巨人で過ごした3年間は決して人生の遠回りではなかったのである。
文=中溝康隆 写真=BBM