
大洋戦での優勝決定後、胴上げされる与那嶺要監督
優勝は僕のおかげ!
元気がなかった僕の古巣ドラゴンズ、
日本ハムが、ほんの少~しだけ上がってきました。その一方でジャイアンツが、まさかの13連敗。ただ、FA選手がやっと出そろい、
山口俊も復帰戦で好投しました。上位と差が開いてしまいましたが、まだまだこれからです。
今回は1974年、昭和49年です。ドラゴンズが
巨人のV10を阻止し、54年以来のリーグ優勝を果たした年です。残念ながら
ロッテに敗れ、日本一にはなれませんでしたけど、アマ時代を通じて、野球での優勝は初めてなので、うれしかったですねえ。
先週、きれいにまとめたつもりのウォーリー(与那嶺要監督)との関係ですが、すいません、また文句が少し出てきちゃいます。別にウォーリーが嫌いだったわけじゃないんです。本当に尊敬する指揮官でした。そこは勘違いしないでください!
僕はプロ6年目。開幕から外野でスタートしたんですが、なかなかスタメンには定着できなかった。相変わらず、「打ったり打たなかったり」、というか、「打たなかった、打たなかった、打たなかった、打った」くらいでしたね。
流れが変わったのが、6月2日、札幌円山での巨人戦です。この試合でサードの
島谷金二さんがじん帯を損傷したんですよ。同じ部屋で部屋子(同部屋の後輩)だった僕も付き合いよくというのか、その日、頭にデッドボールを食らって、2人とも医務室のベッドで寝ていたことを思い出します。
僕は大したことなかったけど、島谷さんは2カ月以上、試合に出られなくなった。それでウォーリーが「サードができる選手はいないか」と言ったら、守備コーチの
森下正夫さんが「1人います。大島がいる。大島はサードいけます!」って言ってくれたんですよ。
でも、即座にウォーリーが、すごい剣幕で・・・
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