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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第36回「宇野に2回も抜かれた?」

 

僕と宇野[手前]。アイツ、なぜかいつも僕の後をついてきました


壁に向かって契約更改?


 前回は初めてのホームラン王、いや、僕の唯一のホームラン王となった1983年の話をしました。チームは連覇を逃しましたが、個人的には納得のいく結果を出せたシーズンです。

 オフの契約更改もスキップ気分ですよ。いくら年俸を上げてくれるんだろうなって、楽しみでいっぱい。契約の席もピシッとスーツを着てドンと座り、「さあどうぞ、金額をおっしゃってください。すぐハンコを押しますよ」くらいで、余裕たっぷりでした。

 いまみたいに何億円ももらう時代じゃありません。当時、僕の年俸は2100万円だったんですが、タイトルも獲ったし、最悪、倍にはなるだろうと思ったんです。西武が球界に参入して、一気に年俸相場を上げた時代で、各チームのトップ選手は6000万円、7000万円が相場だったと思います。

 ところが、交渉担当の球団社長が言ったのが、「タイトル料込みの1000万円のアップ」でした。「なんじゃそりゃ!」です。一応、言っておきますが、この年、打率.290、36本塁打、94打点。1年だけの数字じゃないですよ。僕はすでに15年選手で、打率3割を2回マーク、30本塁打以上も2回目です。物価は違いますが、いまなら2億円プレーヤーでもおかしくないですよね。

 それまで僕はおカネのことでゴネたことは一度もありません。確かに余計なひと言が出てしまうときはありましたが、何となく、「男がカネのことを言うものじゃない」と思っていたことがあります。

 そのときも最初は「仕方ないかな」と思っていたのですが、次の一言で完全にキレました。

「優勝しなかったから上げられない」

 再び「なんじゃそりゃ!」です。だって、前の年、82年は、優勝したのに「査定に優勝は関係ないぞ」ってダウンだったんですよ。それがタイトルを獲ったら逆のことを言うなんて、せこくないですか!

 そこからむちゃくちゃ主張しました。「来た球は全部打つ!」という感じでしたね。何か言ったら全部反論です。

「優勝しないと客が入らない。球団が儲からないんだ」という話も、すぐカッキーン! です。

 これは本当の話なんですが、優勝が決まる試合って、ホームでもビジターでも球場が満員になるじゃないですか。あの年の僕は、そういう試合に強くて、サヨナラ打があったりで、巨人の優勝がずいぶん延びたんです。当然、お客さんもすんなり決まるより多かったと思います。

 だから「それをどう考えるんですか。観客動員の話を言うなら、あの数試合で球団の収入が増えたんだから、それも評価してください」って言い返したんです。僕だって、そんな屁理屈は言いたくないですよ。ただ、ケンカを売ってきたのは向こうですからね。

 そしたら「そんなの知るか!」と球団代表が逆ギレして部屋を出て行っちゃった。

 いやあ、参りました。当時の契約更改は1対1でやってましたから、その後、1人で部屋にポツンです。

 最初はすぐ帰ってくるだろうと思って、壁に向かって、何を言おうかってブツブツ言いながら予行演習したんですが、結局、帰ってこず、大島史上初の保留になってしまったわけです。いまでも思いますが、これって僕は悪くないですよね……。

 その後、契約はしましたが、金額が上がったわけじゃないし、互いに気まずい思いをしただけ。やっぱりケンカはするもんじゃないですね。ただ、そう思いながらも、同じような場面になったら、いまでも同じことを言う気がします。僕はそういう頑固さがあります。

宇野に抜かれた?


 翌84年もホームラン30本を打ちました。ある程度、バッティングの形が固まり、自分のチーム内の立ち位置が定まった時期でもあったと思います。「バッター大島」の円熟期と言ってもいいかもしれないですね。

 そう言えば、あの年は大バカ、いや宇野勝に“抜かれた”試合もありました。僕が一塁走者でいたとき、宇野がライトにフライを打ったんです。捕れるかどうか際どい打球だったんで、打球を見ながら判断しようと一塁を少し出たところで止まっていたら、なんだか馬でも近づいてくるような音がする。ハッとして見ると、大バカ、いや勝が猛烈な勢いで走ってくる!

 アイツは打球が抜けると思ったんでしょうね。あわてて「来るな、止まれ!」と言ったんですが、もう目が血走っていた。ビューンと抜かれて僕がアウトです。

 実際、ライトは捕れず、僕のボーンヘッドと言われ、テレビの珍プレーにも出ましたが、微妙な当たりだったし、落ちたのを確認してから走っても二塁は悠々セーフという判断があったんです。

 たださ、勝。いずれにしても走るときは前を見ようや。走者を抜いちゃダメだよ。

 以前書いた「ヘディング事件」もそうですが、僕は彼のせいで、2度もテレビの「珍プレー」の登場人物になっちゃった。まあ、プロは目立ってナンボですから、それもいい経験ですけどね。

 翌85年に達成したのが、通算1000三振です。史上10人目で、達成当時、試合数に対する三振ペースは史上最速でした。

 実は、試合数で僕を“抜いた”のは、やっぱり勝みたいですね。僕は1705試合、勝が1426試合とのことです。ただ、僕は代打が多いから打席数のペースでは、負けてないと思います(もちろん、負けていてもいいんですが)。

 達成は85年10月2日のヤクルト戦[ナゴヤ]で、相手は荒木大輔です。ただ、皆さんは不名誉な記録と思うかもしれませんが、正直、僕はあまり気にしてなかった。長いことしていれば、こんな記録もあるし、試合に勝ち、僕はホームランも打っているんですよ。それに、前も書いたように、もともと三振は気にならなかったんです。

 若手時代、二軍で本多逸郎監督が「思い切って振れ!」と言ってくれて、三振してもいっさい怒られなかったことも大きかったですし、ホームランが自分の武器と思っていたのもあります。自画自賛ではないですが、僕のホームランは、田淵幸一さん(阪神ほか)みたいに滞空時間が長かった。ポ〜ンと上がって「入るか、入るか」となって球場のファンも固唾をのむ。そこでボンとスタンドに飛び込んで大喝采が起こるパターンです。その中で塁を回るのは、本当に気持ちよかったです。

 そのためには、やっぱり振らなきゃいけない。当てて凡打も三振も同じ一死ですしね。ただ、見逃しはイヤでしたね。バットを振らなきゃ何も始まりません。だから僕の三振のほとんどが最後は空振りです。

 以前、「若いころは空振りしても客席から拍手が起こった」とも書いたことがありましたが、このころは違いました。「バカヤロー」「ボケ」「カス」「アホ」……よくまあ、言い方があるなというくらい味方ファンからの罵詈雑言。

 でも、まったく気にしませんでしたね。チームの中心打者になったんだから、これも期待の裏返しです。時々ですが、「うるせえ、誰がカスじゃ!」と言い返したことがありましたが、まあ、それも若気の至りというヤツです。

 次回は1000三振の後からいきましょう。ここでも僕らしい逸話があります。いまは84年の話ですから、もうすぐナオミさん(愛しの妻です)との出会いになりますが、たぶん、次回は、そこまで行きません。

PROFILE
大島康徳/おおしま・やすのり●1950年10月16日生まれ。大分県出身。右投右打。中津工高からドラフト3位で69年中日入団。3年目の71年に一軍初出場の試合で本塁打を放つ。76年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録。翌77年に打率.333、27本塁打の活躍で不動のレギュラーとなり、79年にはリーグ最多の159安打、36本塁打、リーグ3位の打率.317の大活躍。83年には36本塁打で本塁打王にも。88年に日本ハムへ移籍、90年には史上最多の2290試合を要して2000安打に到達した。94年限りで現役引退。2000年から02年まで日本ハム監督も務めた。現役通算成績2638試合、2204安打、382本塁打、1234打点、88盗塁、打率.272。

中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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