ホーナーの赤鬼旋風からゲッツ! のラミちゃんまで、よみがえる懐かしの外国人選手たち。地上波テレビの野球中継で観ていた愛しの外国人50選手のさまざまなエピソードを描いた『プロ野球助っ人ベストヒット50』(ベースボール・マガジン社)が3月2日に発売される。ここでは番外編として1998年から2001年の間、阪神、巨人に在籍して通算32勝をマークした“お騒がせ左腕”ダレル・メイを取り上げる。 3度目の先発で完封勝利

阪神では2年間で計10勝に終わったメイ
あの夜、カンプ・ノウのピッチには焼けた豚のアタマが投げ込まれた。
2000(平成12)年夏、スペインサッカー界の名門FCバルセロナから、宿敵レアル・マドリードへ“禁断の移籍”を決断したルイス・フィーゴに対して、ホームのバルセロニスタたちは怒り狂っていたのだ。10月のラ・リーガ直接対決で、当時の史上最高額となる移籍金6000万ユーロ(約72億円)で動いた“裏切り者”フィーゴがコーナーキックを蹴る際には怒号やモノが飛び交い、焼かれた豚の頭も宙を舞った。
理屈じゃなく、感情の部分がどうしても割り切れない。向こうに行ったら幸せになれないぞ……的なファン心理は、どこか恋愛感情に近い。いつの時代もプロスポーツにおけるライバルチームへの移籍はファンの神経を逆撫でする。同じ頃、日本のプロ野球でも阪神タイガースから読売ジャイアンツへ移籍した、ひとりのお騒がせ外国人投手がいた。ダレル・メイである。
98年4月15日の来日時から、メイは問題児としてメディアに登場。
松井秀喜が表紙の『週刊ベースボール』98年5月4日号「球界ずうむ・あっぷ」では、“バテバテ新助っ人”の見出しに、虚ろな目で吐き気を訴えるメイの顔写真が掲載されている。「こんなんで大丈夫か!? 阪神の第7の外国人メイが来日も、時差ボケでいきなりダウン」と厳しい言葉が並ぶが、前評判は高く、まだ25歳の若さで、エンゼルス3Aではノーヒットノーランを達成。前年からメジャー昇格すると29試合に登板して2勝をマーク、145キロの速球でコーナーを丁寧に突く188センチの長身左腕と大きな期待が寄せられていた。
しかし、お約束の時差ボケで16日の来日初練習はパス。翌17日には鳴尾浜で休み休み軽く体を動かしたものの、たったの35分で吐き気を訴え悲しみのギブアップ。ただの運動不足のおっさんやないか……なんて絶望する関西マスコミ陣を横目に、メイはウエスタンで計5試合に登板すると、17イニングで19安打11失点と低空飛行。「一軍では使い物にならない無気力助っ人」と酷評されてしまう。
だが、
湯舟敏郎や
弓長起浩といった主力サウスポーが故障離脱すると、5月24日に昇格即初先発。マシンガン打線を擁する横浜相手に、5回3安打3失点とまずまずのスタートを切る。その後、三度目の先発マウンドとなった6月6日の横浜戦では4安打10奪三振の快投で来日初完封勝利。週ベ名物コーナー『熱闘EXPRESS’98』では「メジャーで勝ったときはホッとした感じだが、今日は本当にうれしい」という本人コメントと、“負傷離脱したエース
藪恵壹の代役を期待”の一文が確認できる。
野村監督に逆ギレで退団へ
結局、98年は打線の援護にも恵まれず21試合で4勝9敗、防御率3.47と負け越したが、貴重な先発左腕として2年目の99年シーズンも引き続きローテの一角を担う。
野村克也新監督が率いるチームは4月を11勝11敗で乗り切ると、5月には首位追撃。6月10日には
中日を抜き去り単独首位へ。そして12日の巨人戦ではあの
新庄剛志の敬遠球サヨナラ打が飛び出し、大阪の街はお祭り騒ぎとなる。しかし、新庄がお立ち台で「明日も勝つ!」なんて叫んだ翌日から急失速。負けが込むとノムさんの辛辣なボヤキに慣れていない選手たちが不満を漏らし始め、チームは空中分解してしまう。
メイも7月18日の巨人戦(甲子園)で、一塁ベースカバーに入った際のセーフ判定に激怒し、審判に体当たりをかまし暴言も吐き退場処分に。2週間の謹慎処分が下されたが、ここで背番号69は恋人と歯の治療も兼ねたグアム旅行へ出掛ける驚愕の行動に出る。もちろん野村監督も怒ったが、なんとメイは逆ギレ。「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と批難し、英語文書の監督批判ビラを自ら配る前代未聞の謎行動に打って出る。いや頼むからその熱意と時間を野球に使ってくれ……なんて真っ当な突っ込みも虚しく、罰金1200万円と無期限出場停止の重い処分が課せられ、メイはそのまま退団へ追い込まれる。
日本球界からメジャーへ

00年6月7日の阪神戦では元同僚の和田に対して危険球を投じた
そして、翌2000年シーズン、宿敵・巨人に総額1億5000万円の高待遇で移籍するわけだが、あのノムさんにケンカを売った男はここでも事件を起こす。6月7日の古巣・阪神戦(東京ドーム)でマウンド上のメイが、打席を3度続けて外した
和田豊の背中を通す危険球を投げつけたのである。
13三振を奪い、勝利投手となった試合後のお立ち台で「(打席外しは)2回くらいなら我慢する。3回やられたなら、わざとやられても仕方がない」と淡々と語り、同時に「To him(彼を狙った)」発言も物議を醸し、メイには出場停止10日間、制裁金50万円。打者・和田にも遅延行為で厳重注意処分。野球規則を適切に行使しなかったとして審判団(あの98年7月の甲子園同カードで
ガルベス騒動に立ち会った橘高淳球審含む)にも厳重戒告処分が下される騒動となった。
打率4割に挑む
イチローが表紙を飾る週ベ2000年7月3日号では、追跡企画『「メイ問題」とは何だったのか』が特集されていることからも、当時の事件に対するインパクトの大きさが分かる。メイの処分に対して、「外国人という意識が強すぎるんじゃないか」と珍しく連盟批判を口にする長嶋監督。同年5月に中日選手が橘高審判に暴行して退場処分を食らった件を例に挙げ、「審判を殴った人より処分が重いのはどうなんだろう」と疑問を呈する選手会長の
桑田真澄。記事の中でも「メイの行為はどのような理由付けしても正当化してはならない。一方でどう考えても(審判の右助骨骨折させた)中日選手と(98年に審判へボールを投げつけた)ガルベスの処分が平等とは思えない」という論調で球界に一石を投じている。日本球界を舐めた態度の助っ人に対する見せしめ的な処分が果たして妥当なのか? 『週刊新潮』では「巨人メイ投手の「迷球」で厳格処分も迷走」と韻を踏みまくりの記事が掲載されるほど、社会的な関心も高かった。セ・リーグ野球連盟の渋沢良一事務局長によると、現場のグラウンドで誰も声を上げなかった行為に、野球連盟が処分を下したのは初めてのケースだったという。
しかし、計4年の日本生活で数々の騒動を起こした左腕は、一方でいざマウンドへ上がればただ者ではなかった。巨人移籍1年目には12勝で日本一に貢献。01年も2年連続二ケタ勝利をあげると、02年からは自らの希望でカンザスシティ・ロイヤルズと契約を結び、03年にはメジャーで10勝を記録してみせる。来日前はマイナーで伸び悩んだ20代中盤の若手投手が日本で経験を積み、30歳前後でアメリカに逆輸入され活躍するキャリアモデルの走りでもあった。
“裏切り者”や“問題児”と言われ常に逆風の中でプレーし続けた選手だったが、振り返れば2000年代前半、ダレル・メイもイチローや新庄やゴジラ松井といった豪華スターたちと同時期に、日本球界を飛び出し、“メジャー挑戦”したひとりだったのである。
文=中溝康隆 写真=BBM 『プロ野球助っ人ベストヒット50』ご購入はこちらから! 【著者紹介】
中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
1979年埼玉県生まれ。ライター。2010年開設のブログ「プロ野球死亡遊戯」が話題に。『週刊ベースボールONLINE』の連載コラムを担当。「文春野球コラム2017」では巨人担当として初代日本一に輝く。著書には『プロ野球死亡遊戯』『
原辰徳に憧れて』『令和の巨人軍』『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』など。