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通算657本塁打の打撃以上に光ったリード。野村さんは史上最高のキャッチャーだった
「カーブを打てない野村」が工夫を重ねて三冠王に
昨年の
金田正一さん(元国鉄ほか)、年が明けて
高木守道(元
中日)、そして2月11日には
野村克也さん(元南海ほか)が亡くなった。プロ野球界からまた一つ、大きな大きな星が墜ちてしまった。
1人で歩くことが難しくなっているとは聞いていたが、1月21日に金田さんのお別れの会で会ったときも車イスだった。「監督、大丈夫ですか。体に気をつけてくださいよ」と声を掛けたら、「おう、分かった」と返してくれた。それが最後の会話になってしまった。偉大な先輩であるとともに、17シーズンにわたってパ・リーグで必死に戦ったライバルだ。お互いに一番、血気盛んな時代だっただけに、いいことも悪いことも、思い出したらきりがないほどだ。
私が東映に入団した1959年、野村さんはすでに一度、ホームラン王に輝いていたが、正直、当たれば飛ぶが粗っぽいバッターだなと思っていた。東映の本拠地である駒沢球場の試合では、「カーブの打てないノムラ、大飯食らいのノムラ」と野次られていたものだ。
しかし、野村さんはそこから考えに考え、工夫を重ねていったのだろう。あっという間にパ・リーグを代表する長距離バッターに変貌していった。週刊ベースボール別冊の『追悼号』で野村さんの打撃フォームを解説させていただいたので詳しくはそちらに譲るが、狭かった大阪球場でホームランを打つというところからの逆算でバッティングをつくり上げていったのだ。
簡単に言えば・・・
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