
甲子園には出場できなかった筆者だが、プロに入って活躍。通算3085安打は今もなお日本記録だ
高2で打者に専念
先週からの話の続きだ。甲子園出場を夢見ていた私は
広島を飛び出して大阪の浪商高(現大体大浪商高)へ転校した。野球部の中島春雄監督に許しをもらったのだ。高校1年生の夏のことだ。浪商高はすでに日本一を3度も勝ち取り、その名を全国に轟(とどろ)かせている強豪校だった。
しかし私が入部する前の事件が問題となり、1年間の対外試合禁止が言い渡されていた。私にとってはいきなり2年春夏の甲子園を断念せざるを得ない状況となったわけだが、こればかりはどうすることもできない。私は気持ちを切り替えた。
「よし、この1年でもっともっと力をつけて、3年生になったら絶対に甲子園に出てやるぞ」
私は必死に練習した。練習が終わって下宿先に戻っても夜のランニングや素振りを欠かさなかった。その成果もあって、200人を超える1年生の中から少しずつ抜け出し、レギュラーへ近づいていった。
このころの思い出は
水原茂(元
巨人)監督との出会いだ。以前にも書いたが、高校2年生になったばかりのころだ。中島監督は1年間の対外試合禁止となった事件の責任を取り、すでにその座を退いていたが、私は入部を認めていただいた恩もあり、その後も何かあるたびに中島監督を頼っていた。ある日、・・・
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