
東映時代の水原監督[左]と筆者
我慢の限界
私は打撃で記録を残した選手だ。お世辞にも守備の名手とは言えなかった。4歳のころの大火傷が原因で右手が不自由となり、グラブをうまく扱えなかったこともあるが、それは言っても始まらない。プロの世界では言い訳になるだけだ。守備の分は打撃でカバーしようと思ってきたし、実際にそうしてきたつもりだ。
いつも打撃のテーマが多いから、今回は守備について話してみたい。私のイメージからして、私がもし監督になったら、きっと打撃中心のチームをつくり上げると思い込んでいる方が多いかもしれないが、それは大きな誤解だ。私が監督になったら、投手陣を中心に守りのしっかりとしたチームをつくる。打ち勝つ野球ではなく、守り勝つ野球を目指す。なぜなら、そのほうが勝てる確率が高いからだ。打線は水ものと言われる。エース級の投手は、そうそう打てるものではない。
名将と呼ばれた監督ほど守り勝つ野球を実践してきた。1点の重みを知り尽くしているからだ。今でこそリードした終盤の守備固めは当たり前となっているが、それを初めて日本球界に持ち込んだのは、
巨人、東映を日本一に導いた
水原茂監督だったと記憶している。メジャー仕込みのワンポイントリリーフ、あるいはブロックサインも水原監督が最初に取り入れたものだ。
この連載では何度も書いてきたが、その水原監督が巨人から東映にやって来たのは、私がプロ3年目の1961年(昭和36年)のことだった。プロ3年目と言っても高卒入団だから、シーズン途中に21歳になったばかり。それでもすでに四番も張り、私はすでにチームの主力選手になっていた。この年は初の首位打者にも輝いている。
どのシーズンだったかは忘れてしまったが、私は守りのことで水原監督に怒りをぶつけたことがある。
チームが大きくリードし、私の打席ももう回ってこないだろうとなると、私はよく守備交代を命じられた。それは私も理解していた。しかし・・・
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