
1974年、日本ハム時代の大杉[右]と筆者
主砲の不振で決断
両リーグともに最後の最後までもつれたペナントレースだが、優勝とともに順位も確定し、無事に全日程が終了した。これからクライマックスシリーズ、日本シリーズと続くわけだが、出場する選手たちは日本一を目指して頑張ってもらいたい。
残念ながらBクラスとなり、クライマックスシリーズへの出場権を逃したチームは大いに反省してもらいたい。選手は自身の成績をしっかりと振り返って課題を見つけ、首脳陣もまた低迷した理由を分析し、来季へとつなげなければならない。
チームが低迷した要因、優勝するためには何が足りないのか。それを一番分かっているのは監督だ。来季に向けて各選手が力をつけてくれるのが一番だが、言うほど簡単なことではない。となると足りない部分はトレードやFAなどの補強が一番の策となる。チームに刺激を与える意味でも有効な手段と言えよう。
私自身、日本ハムから
巨人へ、巨人から
ロッテへと2度のトレードの経験があるが、今回は私が深く関わった思い出深いトレードの話をしよう。あれは1973(昭和48)年のことだった。1対1の大型トレードがほとんど決まりかけていたが、最後の最後でご破算となった。私が同意できなかったからである。
この年は東映から日拓ホームとチーム名が変わり、パ・リーグが前後期制をスタートさせたシーズンでもあった。わが日拓は前期5位に終わったところで
田宮謙次郎監督が更迭となり、後期からは二軍監督だった
土橋正幸こと土橋の“兄(あん)ちゃん”が一軍監督として指揮することになった。私は兄ちゃんに頼まれ、選手兼ヘッドコーチ兼打撃コーチとなった。選手一本に集中したかったが、兄ちゃんに頼まれたら断れない。「いずれ、お前に(監督の座を)渡すつもりだから」とも言われていた。
当時、チームの主砲で四番を務めていたのが、私の弟分でもある
大杉勝男だった。大杉はすでに本塁打王、打点王を2度ずつ獲得しており、パを代表するスラッガーだった。
しかし・・・
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