
専属ではなかったが、松井秀喜[手前]の担当をすることが多かったという筆者[中央奥]
まさに『生きる教科書』
経歴不詳の謎の人物というわけではないが、昔からの熱心なジャイアンツファンでない限り、僕の名前は知らないかもしれない。
1980年に中央大からドラフト外で
巨人に入り、84年に引退。一軍では1勝しかできなかったピッチャーだ。引退後もジャイアンツにお世話になり、打撃投手、先乗りスコアラー、広報、法務系の仕事、ファンサービス、ファンクラブ、社会貢献、プロスカウトと幅広く仕事をさせていただき、昨年退社した。41年間だから、人生の3分の2以上になる。
裏方の中で一番長かったのが広報の仕事だ。離れてから少し時間がたっているが、中堅以上の記者には「巨人広報・香坂」の名前は、そこそこ知られていると思う。悪名と良い評判はどちらが多かったのかな。少しはマスコミの方たちのお役に立てたんじゃないかと信じているけど(笑)。
連載1回目は、広報時代、一番影響を受けた方の話からいこうと思う。この方は「少年・香坂」にも、大きな影響を与えた、あこがれの存在であった。
ミスター・ジャイアンツ、巨人軍終身名誉監督の
長嶋茂雄さんだ。入団1年目の監督でもあったが・・・
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