
いつも笑顔のイメージながら、実はさまざまな顔がある……
宮沢りえさんも大ファン
体が大きい、球が速い、パンチ力がある、ミート力がある、肩が強い、足が速い等々、どれを取っても秀でたものを持っている精鋭たちが、毎年プロ野球の門をたたく。ジャイアンツの1982年秋のドラフト1位指名は言わずと知れた「平成の大エース」として君臨することになる
斎藤雅樹(市川口高)だ。斎藤と同期入団の高校生にドラフト4位、岡山南高出身、甲子園出場経験者、投手出身の
川相昌弘も入団してきた。新人として多摩川グラウンドでの練習、ウオームアップの隊列の先頭を大きな声を出して走る姿……。はっきりと覚えている、細身の体、高校生とは思えない年輪を感じさせる風貌。すぐについたニックネームは「ジィ」だった。
甲子園では投手としてマウンドに登っていた川相のプロ入り後は野手起用の方針が打ち出されていた。しかし、プレースタイルはどんな選手になるのか……。川相は投手出身だけに柔軟なハンドを生かし、肩は強く、正確なスローイングができた。常に軽快な動きをし、ウオーミングアップではバク転を披露するなど特に遊撃手としての資質を兼ね備えた選手という印象を持たせた。ただ、抜群に足が速いというわけでもなく、ボールを遠くに飛ばせるパワーのある選手というわけでもない。僕は正直言って、果たして今後、レギュラーを張れる選手になれるのだろうかという疑問が先に立っていた。
打撃は非力さが目立ち、アピールすべきは守備力と言われていた川相だったが、2年目の84年に一軍初出場を果たす。その後、一、二軍の間を行き来していたが、僕も例によって一軍から落ちてきて合流した二軍戦……、驚いた。川相はあっという間にファームの三番に座っていた。そして、その試合の第1打席に絵に描いたような素晴らしい打球で左中間を破る二塁打を打つ。力が抜けて、バットのヘッドが素早く走り、打球が速く、飛距離も出た。もうそれは僕の知っている第一印象の川相昌弘ではなかった。続く打席も長打を連発。打率も急上昇で二軍ではハイアベレージをキープしているという。
細かった体も少しずつ大きくなり、徐々にプロの体になっていく。川相は高校生としては順調に成長し、その後、ポジション争いが激化していった正ショート候補の争いに名を連ねた。岡崎(
岡崎郁)、勝呂(
勝呂壽統)、鴻野(
鴻野淳基)、そして川相。やはり打撃では岡崎、勝呂、鴻野に続いて川相という順の評価、守備力では川相が頭一つややリード、岡崎、勝呂、鴻野の順の評価だったと記憶している。
89年から2期目の監督となった
藤田元司さんは「3対2で勝つ野球をする」と公言しており、斎藤、槙原(
槙原寛己)、桑田(
桑田真澄)の三本柱を中心に徹底的に守りの野球を貫き、相手の攻撃を2失点以内に抑え、打撃陣はそれよりもう1点多く取って勝つという、今の野球では考えられない精密な計算の裏づけで戦う構想を持っていた。
そうなると藤田野球に必要なのは鉄壁の守りができる遊撃手ということになる。川相は確実性のある柔軟な動き、所狭しと動き回る広い守備範囲で水を得た魚のようにアピールし・・・
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