週刊ベースボールONLINE

裏方が見たジャイアンツ

香坂英典コラム 第38回 愛すべきジィちゃん……川相昌弘

 

いつも笑顔のイメージながら、実はさまざまな顔がある……


宮沢りえさんも大ファン


 体が大きい、球が速い、パンチ力がある、ミート力がある、肩が強い、足が速い等々、どれを取っても秀でたものを持っている精鋭たちが、毎年プロ野球の門をたたく。ジャイアンツの1982年秋のドラフト1位指名は言わずと知れた「平成の大エース」として君臨することになる斎藤雅樹(市川口高)だ。斎藤と同期入団の高校生にドラフト4位、岡山南高出身、甲子園出場経験者、投手出身の川相昌弘も入団してきた。新人として多摩川グラウンドでの練習、ウオームアップの隊列の先頭を大きな声を出して走る姿……。はっきりと覚えている、細身の体、高校生とは思えない年輪を感じさせる風貌。すぐについたニックネームは「ジィ」だった。

 甲子園では投手としてマウンドに登っていた川相のプロ入り後は野手起用の方針が打ち出されていた。しかし、プレースタイルはどんな選手になるのか……。川相は投手出身だけに柔軟なハンドを生かし、肩は強く、正確なスローイングができた。常に軽快な動きをし、ウオーミングアップではバク転を披露するなど特に遊撃手としての資質を兼ね備えた選手という印象を持たせた。ただ、抜群に足が速いというわけでもなく、ボールを遠くに飛ばせるパワーのある選手というわけでもない。僕は正直言って、果たして今後、レギュラーを張れる選手になれるのだろうかという疑問が先に立っていた。

 打撃は非力さが目立ち、アピールすべきは守備力と言われていた川相だったが、2年目の84年に一軍初出場を果たす。その後、一、二軍の間を行き来していたが、僕も例によって一軍から落ちてきて合流した二軍戦……、驚いた。川相はあっという間にファームの三番に座っていた。そして、その試合の第1打席に絵に描いたような素晴らしい打球で左中間を破る二塁打を打つ。力が抜けて、バットのヘッドが素早く走り、打球が速く、飛距離も出た。もうそれは僕の知っている第一印象の川相昌弘ではなかった。続く打席も長打を連発。打率も急上昇で二軍ではハイアベレージをキープしているという。

 細かった体も少しずつ大きくなり、徐々にプロの体になっていく。川相は高校生としては順調に成長し、その後、ポジション争いが激化していった正ショート候補の争いに名を連ねた。岡崎(岡崎郁)、勝呂(勝呂壽統)、鴻野(鴻野淳基)、そして川相。やはり打撃では岡崎、勝呂、鴻野に続いて川相という順の評価、守備力では川相が頭一つややリード、岡崎、勝呂、鴻野の順の評価だったと記憶している。

 89年から2期目の監督となった藤田元司さんは「3対2で勝つ野球をする」と公言しており、斎藤、槙原(槙原寛己)、桑田(桑田真澄)の三本柱を中心に徹底的に守りの野球を貫き、相手の攻撃を2失点以内に抑え、打撃陣はそれよりもう1点多く取って勝つという、今の野球では考えられない精密な計算の裏づけで戦う構想を持っていた。

 そうなると藤田野球に必要なのは鉄壁の守りができる遊撃手ということになる。川相は確実性のある柔軟な動き、所狭しと動き回る広い守備範囲で水を得た魚のようにアピールし、正遊撃手の座を奪い取る。確実性はもちろんのこと、三遊間寄りのヒット性の当たりもサッと回り込む、そして飛びつく。複雑なバウンドのゴロもボールのほうからグラブに吸い込まれるような芸術的なグラブさばきから、矢のような送球で間一髪、一塁で走者をアウトにする。

 その華麗な動きはMLBで活躍し、「オズの魔法使い」との異名を取ったオジー・スミスのイメージとダブった。スミスも川相も愛称はオジーとおジィだ(笑)。当時人気絶頂で巨人ファンであった女優の宮沢りえさんも、川相のその華麗なフィールディングの虜(とりこ)であったのも有名な話だ。

 僕は職人・川相に聞いたことがある。ゴロ捕球のコツは? すると川相は「目の位置を低く、ゴロを下から見るんですよ。打った瞬間からボールを上から見るように動いたらダメです。下から、下からです。これができるようになってから守備がさらに安定してきました」。確かに川相を見ていると視線が低い、つまり腰が低くなるということで、グラブは当然下から出ることになる。

 実は僕が大学時代、日米野球で対戦したときに惚れ惚れするほどゴロ処理が素晴らしくうまいヘインラインというアメリカチームの遊撃手がいた。これなら絶対にエラーはしないなと思わせるような守備をしており、ゴロを捕球する場所まで動く体勢が低く、地面スレスレに下からグラブが出てくる感じの捕球をした。僕は通訳に頼み、ヘインラインにそのコツを聞いてもらった。返ってきた答えは「グラブは常に低い位置から出すようにし、『ショベルカーのように』ボールを土ごと掘って捕ってしまうような感じでゴロを捕るんだ」ということだった。本当にそのショートは土ごとボールをつかみそうなくらい目の位置が低かったのだ。

 そう、川相の言った「目の位置を低く」と言う言葉に通ずるものがそこにあった。やっぱり! 僕は投手であるが名手が心掛けることの意味が分かるような気がした。

バントの神様


犠打世界一記録を持つ職人選手でもある


 そして1点にこだわる藤田野球の攻撃面での不可欠戦法、それは走者を確実にスコアリングポジションに送る「犠打」だ。送りバントを成功させるための技術の深さを熟知、体得している川相はどんな場面でも確実に走者を送った。「バントの神様」と言われる所以である。そして、その数は世界記録になるまでの偉業ともなる。

 2003年8月、僕は川相の犠打世界記録達成時の球場ショーアップの担当にも加わっていた。達成直後は一時的に試合を止め、球場に招いた川相の家族が、グラウンドで花束を贈呈するという段取りも作った。あのときはご家族を招待しても、その日に世界記録達成とはならず、何度も球場に足を運んでもらい、ご家族も大変だった。でも、無事本拠地の東京ドームで世界記録は達成され、ご家族の喜びの表情と歓喜のスタンドを見たときは、自分の中でも拍手を送る気持ちと、その仕事の達成感が込み上げた。

 川相の達成した512個の犠打世界新記録、それまで保持していたのはアメリカ大リーグ、エディ・コリンズ(1906年〜30年まで現役)という選手だった。ここで、ある事実が判明した。当時のアメリカの記録を調べてみると「犠打」という項目の数字の横に「including sacrifice hits」(インクルーディング サクリファイス ヒッツ)という注釈が付いている。これは「送りバントという犠打の数のほかに、犠飛、進塁打の数も含む」ということだった。当時のMLBの記録の分類は送りバントは送りバントとして数えるスタイルではなかったということになり、そうなるとコリンズの記録は犠飛、進塁打が含まれた数字なので、川相の新記録はこのとき以前にもう達成されていたということになる。

 一つの記録を取っても、90年以上も前のアメリカとの記録の認識の違いはあって当然かもしれない。ただ、それ以上にチームのために自己犠牲となるプレーをひたむきに続けてきた川相昌弘の足跡は敬意を払われるにほかならないものであった。

 この川相昌弘という男は洗練された守備力を持ち、送りバントを含めた多様な作戦も巧みにこなす。相手をかく乱する機動力作戦への対応や機転の利いた果敢な走塁も相手に嫌がられる存在となっていた──。

 しかし、それは彼の持っているすべてではなかった。技術の探求とともに相手を研究する姿勢はチームで一、二を争う選手でもあった。僕が7年間務めた先乗りスコアラー時代、91年のヤクルトとの地方試合の信越シリーズに先乗りスコアラーのデータを松本まで持参したときのことだった。僕は当時巨人キラーとも言われていたヤクルト・川崎憲次郎について川相に問われた。川崎は140キロ台中盤のストレートとウイニングショットのフォークボールのコンビネーションで巨人打者をいつも苦しめた。川相は僕の作った川崎のチャート(配球表)を見ながら「川崎はこのやや高めに浮く球って、前回登板では何球くらい投げてますかね」と僕に問う。

「ウチも結構やられているし、そう簡単には打てないと思うんですけど、今回こそはこの高めのストレートを狙えないかなと思うんですよ。それもライト方向へ上からたたきつけるように打ちたいんです」

 こうして始まった川崎との一戦はやはり、巨人劣勢、川崎は好投を続けた。僕は試合途中で次の視察地移動のため、球場をあとにしようとしたとき、回ってきた打席での川相は狙いすましたように川崎の高めのストレートをたたきつけるようなスイングでライナー性でライト前に運ぶ執念の一打を放った。確か試合は負けてしまったと記憶しているが、相手を懸命に研究し、一つの結果を出すというその姿勢は素晴らしく頼もしい。われわれ裏方から見ても尊敬できる選手だと僕は感じていた。

 その後、僕は広報というチーム帯同職に異動したが、そのあくるシーズン、ベンチに入った僕に対し「そうか、香坂さんは今年からベンチに入れるんですよね。ならば先乗りスコアラーがそばにいるわけじゃないですか。じゃあ、いろいろ聞いていいですね」。僕も予想していない言葉だった。確かにそのとおりなのだが、そんな発想を持った選手がほかにいただろうか……。川相の着眼点、発想は柔らかく、そういった面でもほかの選手が及ばないアンテナを持っていた。

 そしてまた、川相昌弘という男は「闘争心」の塊のような選手だった。自分の思ったことをはっきり言う、芯が強く、自分の考えを貫く。乱闘ともなれば真っ先に体を張って味方に加勢し、打席で結果が伴わない凡退をすれば、感情を表に出し、近くにあるバケツなど、何でも蹴飛ばしまくって悔しがった。

脱力の川相ギャグ?


 それでは、ファイター・川相昌弘のその意外な一面もご紹介しよう。意外と言っても、もうご存じな方も多いかもしれない。そう「ダジャレ」だ。

 92年、僕が広報部へ移った年、珍しくあるテレビのバラエティ番組がロケを行った。当時若手お笑い芸人として活躍しだしたウッチャンナンチャンの内村光良さん、南原清隆さんコンビが東京ドームにやって来た。彼らはあまり慣れないプロ野球の現場を少し高い敷居と感じていたらしく、グラウンドで藤田監督に挨拶(あいさつ)しても常に緊張を隠せず、いつものキャラクターは封印されたように振る舞っていた。

 ここで登場した川相……、あっ、ここからは「ジィちゃん」にしましょ。

 僕は驚いた、職人・川相の姿は見せず、プロの芸人と絶妙な掛け合い。特にジィちゃんのダジャレは猛威を振るい、ウッチャンナンチャンを喰(く)ってしまう勢い。ジィちゃんのダジャレがさく裂するたびに内村さんは「川相ギャグその1! その2!」と合いの手を入れた。こんな一面がジィちゃんにはあった。

 だが、それからというもの、僕はジィちゃんとの付き合いの中でこの「川相ギャグ」に苛(さいな)まれることになる(笑)。宮崎のキャンプなどで朝の挨拶時に、この「川相ギャグ」なるダジャレを聞いてしまおうものなら、ガクッと脱力感を覚え、「しまった! 午前中に川相に会ってはいけなかった!」とその日の仕事に支障が出てしまうようなダルい感覚に陥るのだった(笑)。

 それではここで「川相ギャグ」の珠玉のダジャレの数々、皆さんにご披露させていただくことにしよう(笑)。

(1)夏場の試合、緊張する場面で「キンチョーの夏……」。

(2)チームメートいじりで……「井端はいいバッター」、「由伸は世を忍ぶ仮の姿」。

(3)若い選手に「ブドウを10個食べたら体にいいぞ、ブドウ糖ね……」。

(4)「水戸黄門が始球式をしたら、投げたコースはインロー(印籠)……」。

(5)「シャインマスカットを食べられるのは社員だけ……」。

(6)「松原! 鈴木! なんとかせいや!」。

(7)阪神の優勝は、「半信半疑やなぁ……」。

 読者の皆さん……、いかがでしたか(笑)。えっ、寒っ? 分かります、分かります(笑)。いろいろな楽しみ方ができる川相ギャグなんです。僕も書いていて久しぶりにそのビミョーな脱力感を味わいました(笑)。

「バントの神様」である川相昌弘はクレバーで努力家、みなぎるような闘志の持ち主、そして、ジィちゃんはユーモアあふれる愛すべき人柄なのだ。ちょっと疲れるけどネ……(笑)。

ショート守備は堅実かつ華麗


PROFILE
香坂英典/こうさか・ひでのり●1957年10月19日生まれ。埼玉県出身。川越工高から中央大に進み、東都大学リーグで79年春にノーヒットノーランを含む7勝を挙げ、優勝に貢献。全日本大学選手権でも優勝した。80年ドラフト外で巨人入団。84年限りで引退。一軍では8試合登板で1勝0敗0セーブ、防御率4.38。引退後、打撃投手、先乗りスコアラー、広報など巨人一筋で過ごし、20年退社。
裏方が見たジャイアンツ

裏方が見たジャイアンツ

ジャイアンツ一筋41年。元巨人軍広報による回想録!

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング