
ロッテ時代に3度の三冠王に輝き、中日でも四番打者として活躍した落合が1994年巨人へ
「俺はやらねえ」
1992年秋、12年ぶりに
長嶋茂雄さんが監督に就任し、長嶋監督はその初仕事として迎えたドラフト会議で「北陸のゴジラ」こと星稜高の
松井秀喜をくじで引き当てる。そのとき僕はドラフト会議の会場である都内・新高輪プリンスホテルの一室で、まったく不謹慎ではあるが、ガックリと肩を落とした。またまた押し寄せるマスコミの取材攻勢に拍車が掛かるからだ。
松井秀喜は世間の注目を集めながら、新人として荒波に揉(も)まれた1年目を過ごした。そして、そのあくる年の94年、あの「
落合博満」がYGマークの入った帽子を入団会見場の壇上で長嶋監督からかぶせてもらうことになる。日本中の巨人ファンのみならず野球ファンが注目をしている長嶋ジャイアンツにまた強力な戦力が加わった。それも三冠王を3度も獲得している超大物、落合博満がやってくるのだ(93年オフからスタートしたFA権を行使し、中日からの移籍だった)。
落合さんは僕よりも4つ歳上であり、大物過ぎる落合さんの邪魔にならずに仕事ができるのだろうかという心配のほうが先に立っていた。いろいろと落合さんの情報を集めたが、まず落合さんはマスコミとの接し方を得意としていないということが分かるようになる。実際、球団が設定した囲み取材などは受けてくれたが、基本的にチームに帯同している10数社ほどの担当記者、つまり「落合番」を相手に毎日取材対応することなどは、ほとんどなかった。
当然、僕のお願いごとはなかなか聞き入れてくれず、いつも・・・
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