
甲府商高時代の筆者
1年生で甲子園に
第94回選抜高校野球大会の準々決勝「国学院久我山高─星稜高」。5回裏、国学院久我山の逆転劇を観ながら、俺の高校時代について書いてみたくなった。
山梨県甲府南中学を卒業した俺は、甲府市立甲府商業高校に進学した。当時の野球部監督・菅沼八十八郎さんが熱心に両親を口説いてくれたおかげでね。実は俺、神奈川県の法政二高に行きたかったんだ。俺が中学のとき、甲府で行われた法政二高の試合を観てから、この学校で野球がしてみたいとずっと思っていた。
甲子園で全国制覇を成し遂げたそのチームは、とにかく強かった。外野手なんて、外野フェンスギリギリに守っていて、高校生レベルじゃないと思ったよ。チームには
巨人で一緒にプレーした
柴田勲さんがいらしてね。高校生の柴田さんのサインをしている姿が、すごく大人に見えたよ。
その後、チャンスが訪れた。練習を見てもらえることになり、川崎市の法政のグラウンドに向かった。それなのに、その日、法政二高の練習がお休みでね。そこで急きょ大学生にまじって練習することになった。ピッチングを披露する段になると、中学生の投げるボールとは到底思えないスピードで、最初に受けてくれたキャッチャーでは捕れないほどだった。それを見ていた法政二高の関係者に、この分なら大丈夫、受験してくれと言われた。でね、その気になって入学試験を受けたら見事に不合格(笑)。聞けば、英語の点数が少し足りなかったらしいよ。
法政二高を不合格となった俺は、地元の甲府工業高校に進学することにした。甲府には甲府一高・甲府工業・甲府商業と3校ある。どの学校からも入学を勧誘されていたけれど、当時は甲府工業の野球部が強かったからね。そして明日、入学願書を提出するという日の夜に、突然、甲府商業の菅沼監督が家を訪ねてきた。監督は甲府商業から明治大学で野球をやり、甲府に戻ってから水晶などの宝石の輸入販売をしながら、母校の支援をしていた。けれど、なかなか強くならないことに業を煮やして監督に就任したという経緯がある。甲子園を目指していた菅沼監督は、時間を見つけては、中学校のグラウンドに向かった。野球部の練習を見ては、いい選手を探していたのである。ある日、俺のピッチングを見て・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン