1970年代のパ・リーグの主役を選ぶ際、迷ったが、選手ではなく、指揮官にした。10年間で阪急監督として2回、近鉄監督として1回リーグ優勝を飾るも、日本一には届かなかった男だ。 週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より 
阪急時代の西本監督
一生懸命やっていたらいつか日が当たる
「勝っとったよ」
ボソリとだが、きっぱり言い切った。それも1日に2度──。
2022年12月5日、元阪急・福本豊さんに上京いただき、堀内恒夫さん(元巨人)との
対談、江本孟紀さん、佐藤道郎さん(ともに元南海ほか)との
座談会と、1日で2つの取材をハシゴしていただいた。
いずれも阪急時代の西本幸雄監督の話から、「日本一は上田利治監督時代になってからだった」という文脈の中だった。
1973年、南海とのプレーオフに敗れたあと、西本監督は監督を辞任。上田監督に代わった。阪急は上田監督の下、75年に広島、76、77年は巨人を破って、3年連続で、西本監督時代にはできなかった日本一を果たしている。
福本さんの言葉は、西本監督のままでも、あのときの阪急なら間違いなく「勝っとった」という意味だ。実際、世界の盗塁王・福本、サブマリンのエース・山田久志、勝負強き左打者、加藤秀司(英司)ら、西本監督が時に怒鳴りつけながら厳しく鍛え上げた若者たちが上田阪急の主力になったことは間違いない。
西本監督は・・・