近鉄では俊足巧打で期待されたが、2001年の優勝時には、ケガもあり歓喜の輪に加われなかった。志半ばで引退すると、そのままスカウトに転身。球界再編の波にのまれるようにオリックス、そして楽天へ。9年間にわたるスカウト活動では、有形無形の財産を手にすることができたと振り返る。 取材・構成=富田庸 写真=愛媛県民球団、BBM 
選手の能力を見極めるスカウトの経験は、その後の指導者人生にも生かされているという
引退してスカウトの道へ
「Y高」のライトブルーのユニフォームを着て、横浜商高2年時に甲子園出場。創価大でも首位打者のタイトルを獲得するなど活躍し、プロ入りにつなげた。ケガもあり、完全燃焼とはいかなかったが、30歳で飛び込んだスカウトの世界は実に刺激的なものだった。 プロ野球の世界で選手として8年、スカウトで9年やりました。2003年に引退し、翌04年、近鉄最後の年にスカウトとなり、05年にオリックス、06年から12年までが楽天でした。
03年の10月ごろ、藤井寺で秋季練習をしている際に当時の編成本部長・
伊勢孝夫さんから戦力外を伝えられたのですが、同時に「地元の関東に戻ってスカウトをやるのはどうだ?」と打診されたんです。私としては即答できませんでしたが、スカウトの仕事に興味があったのは確かでした。
当時は横浜高に
涌井秀章(現楽天)、横浜商大高に
田澤純一(元レッドソックスほか)、横浜創学館高の
高橋徹(元
ソフトバンク)など、神奈川には好投手がたくさんいました。その地元に帰り、スカウトの大先輩・山本泰さんについて現場で挨拶回りをして。年間300〜400試合を見るんですけど、ずっと動いていた人間なので、甲子園で1日3試合、4試合をじっと座って見るというのは意外ときつかったですね。また、体調面も気になりました。現役を退いた直後で、食べる量は変わらないのに、あまり動かない仕事。体重が一気に10kgほど増えまして(苦笑)。それでも好きな野球に携われる喜びを感じていました。
高校生を視察する際に・・・
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