77歳とは思えないほど若々しい。日本ハムのアマスカウト顧問として、現在も注目選手の視察に足を運ぶ。野球の試合や才能ある若手を見るのが大好きで、過去にはダルビッシュ有、中田翔、大谷翔平らを入団させた。スカウトの仕事は「天職」と言い切るスカウト歴37年、山田正雄氏が歩んできた野球人生を振り返る。 取材・構成=滝川和臣 写真=BBM 
11年の現役生活のあと、スカウトの道へ。今年で37年目を迎える
会社員を経て現場復帰
現役を退いたあと、一般企業で約10年間勤務した経験がある。そのためスカウトの仕事をスタートしたのは、40歳台と遅い。そうした背景もあり、山田正雄はほかとは異なるやり方、情熱で自身のキャリアを積み上げていった。 明大明治高から外野手としてプロ入りしたのが1962年。私が在籍する間に大毎、東京、
ロッテと球団名が変わって、監督も6人変わりました。入団6年目あたりからは投手もやった。左投手が足りず投手コーチの
近藤貞雄さんが「おまえやれ」と高校時代に投手だった私を指名したのです。一軍では通算5試合に登板。二軍ながら投手1年目は7勝3敗となかなかの成績だったんですよ(笑)。現役は病気やケガもあって73年限りで引退しました。でも、11年のプロ生活で投手と野手をやった経験はのちのスカウトに役立ったと思います。投手のとき私は下半身がうまく使えなかった。外野や一塁を守れば、グラブさばきが今一つ。だからスカウトになってからは、自分にないものを備えている選手を獲得しようと。それはプラスになりましたね。
野球に未練はまったくありませんでした。ユニフォームを脱いだあとは、下着メーカーの営業として約10年間務めましたが、非常に苦労しました。というのも高校を卒業して野球しか知らなかったわけですから一般の会社員の生活に慣れるまで3~4年はかかりましたし、仕事内容や人間関係もきつかった。高校時代の野球部でも厳しい生活を体験してきましたが、サラリーマンの10年ほどつらいものはなかったですね。
球界への復帰は突然でした。86年、ロッテ時代の監督で、あのころは日本ハムのフロントに入っていた
大沢啓二さんがコーチを探していたところ、マッシー・ムラカミ(
村上雅則。元南海ほか、当時日本ハムコーチ)が、私を推薦したんです。そして、大沢さんのところに呼ばれて、「現場に戻る気はあるのか?」と聞かれました。当時はサラリーマン生活も苦しかったので現場に戻りたい気持ちはありましたが、野球の現場から離れていたため「コーチは厳しいです」と伝えました。すると「何がやりたいんだ?」と言われたので、引退後も高校野球などよく見ていたこともあり、「スカウトなら……」ということで、42歳で日本ハムのスカウトになりました。
思い切ってスカウトの世界に飛び込んでみたものの・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン