昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。太田幸司さん編の最終回はプロ野球編です。甲子園の活躍で国民的な人気者となって近鉄に入団し、最初のころは実力が追いつかずに苦労したそうです。 文=落合修一 
太田幸司
「プロ野球の太田」を新しく作り上げた
──3週連続インタビューの最終回ですが、まだプロに入っていません(笑)。三沢高3年夏に甲子園で準優勝、国民的な人気者となりましたが進路はどう考えていましたか。
太田 いろいろな大学から声が掛かったから進学も視野に入りましたが、早く両親に恩返しをしたかったのでプロに行くことにしました。
──近鉄がドラフト1位指名。当初は「人気先行」で苦労したわけですよね。
太田 だって1年目(1970年)なんか、プロで1勝しかしていないのに、オールスターのファン投票1位ですよ。
──1勝はしていたのですね。
太田 プロ初登板(70年4月14日、
ロッテ戦=日生)がリリーフ勝利だったんです。当時の監督は
三原脩さん。その年は最初の1勝(4敗)だけでしたけど、前年のセンバツまで真っすぐしか投げていなかったピッチャーにしては、よくやったほうじゃないですか。
──3年のセンバツまで変化球を投げていなかったのですか。
太田 やはり全国を相手に戦うにはカーブもあったほうがいいと、3年夏の前に初めて覚えたんです。そういう状態でプロに入ったものだから、最初は3年くらいファームで鍛えてもらって、それから一軍で勝負だなと青写真を描いていても、周囲がそうさせてくれないんですよ。
──それでも1年目は25試合に登板して防御率3点台(3.86)。
太田 でも、2年目(71年)は14試合登板で防御率6点台(6.84)。自分の実力と周囲の期待とのギャップに戸惑いました。2年目は途中でイップスみたいに、投げられなくなりました。それなのに、オールスターのファン投票は2年連続1位ですよ。そのころになると新聞にも「人気先行」と批判的に書かれるようになり、「あんたら、散々持ち上げて人気を煽っていたのに、ハシゴを外すのか」と思いましたね。
野球をやめたいくらいに精神的に追い詰められ・・・
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