昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からはライオンズ一筋18年、勝負強い打撃で「必殺仕事人」と呼ばれた大田卓司さん。まずは甲子園で優勝した津久見高時代、入団した西鉄ライオンズ時代のお話からスタートです。 文=落合修一 
大田卓司
テレビ中継は巨人戦 西鉄は有名ではなかった
──大分県津久見市のご出身とのことですが、どのような少年時代だったのですか。
大田 家は津久見市の中心部からも離れた田舎ですよ。親父は会社員だったのですが、兼業農家でみかんの果樹園もやっていました。僕は農作業を手伝うのが好きで、植林作業や収穫のために重い荷物を担いで段々畑を駆け回っていました。今にして思えば、それで足腰が鍛えられたのかもしれません。
──
稲尾和久さん(元西鉄)が幼少期から漁業を船の上で手伝って足腰が鍛えられたという有名なエピソードと似ていますね。
大田 レベルが違う(笑)。僕は男だけの4人兄弟の3番目だったのですが、小さいころから家の庭でゴムボールを使った三角ベースをして兄弟で遊んでいました。それが野球を始めたきっかけですね。小学生のときは剣道もやっていたのですが、津久見第一中に入学したときは剣道部、野球部と迷いました。長兄が野球をやっていたので野球部を選んだのですが、ちゃんとしたチームで野球をしたのはそれが初めてでしたね。最初は三塁手。臼杵市のどこかの中学と練習試合をやったときに1イニングで3つか4つくらいエラーしたんですよ。監督に「お前、サードはクビ」と言われ、外野手になったのはそれからです。
──大田さんの幼少のころは西鉄ライオンズの黄金時代ですよね。九州ですから、ファンだったのですか。
大田 いやいや、テレビでやっていたのは
巨人戦だけでした。同じ九州と言っても、当時の津久見の子どもにとって福岡は遠い世界。巨人の選手のほうが有名でしたよ。
──高校は当然、地元の強豪・津久見高に進んだわけですね。
大田 3つ上の長兄も津久見高だったんです。僕が中1のとき(1963年)に夏の甲子園に出たのをテレビで見て、格好いいなあと。当時の津久見高のエースは3年の
高橋直樹さん(のち
西武でチームメート)ですよ。僕が中3の夏(65年)にも甲子園に出て、長兄が主将だったのですが全国ベスト8。僕が入学したら県内各地から良い選手が集まってきていて、レベルが高かったですね。
──高校時代の思い出は。
大田 1年のときは先輩が練習している後ろで声出しですよ。1年秋の新チームになったら小嶋仁八郎監督が僕をレギュラーで使ってくれて・・・
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