昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。ライオンズ一筋18年、大田卓司さん編の2回目は、西鉄と西武をつなぐ「太平洋・クラウン」の時代のお話が中心です。大田さんは、福岡のことを「博多」と呼んでいます。 文=落合修一 
大田卓司
江藤慎一兼任監督には「干されました」
──
前回からの続きです。大田さんがプロ5年目の1973年、西鉄ライオンズは太平洋クラブライオンズになりました。
大田 ユニフォームが派手になったり、
ドン・ビュフォードみたいな有名どころの外国人選手を集めたり、チームは変わりました。74年には
フランク・ハワードというメジャーのホームラン王が来て1試合しか出ないで帰っちゃったんですけど、身長200cmだったからバスの座席に座ると頭が天井についていましたよ。島原キャンプの旅館では足のサイズが合う下駄がなくて、まな板に鼻緒を付けて歩いていました。
──本当ですか(笑)。75年には
土井正博さんが近鉄、
白仁天さんが
日本ハムからトレード。2人とも実績豊富な右の外野手で、大田さんにとって強力なライバルだったのでは。
大田 土井さん、白さんがどうこうではなく、
江藤慎一兼任監督だった75年は干されましたね。春のオープン戦で長崎の諫早に行ったときに若い選手を集めて江藤監督が打撃理論を講義したんですけど、僕には理解できなくて「できません」と言ってしまったんです。あとから考えるとその打撃理論は分かったんですが、そのときは自分に合わないと思ったんです。そしたら「お前は、もういらない」と言われ、使ってもらえなくなりました。あの年は土井さんや白さんの活躍もあって僕がプロ入りして初めてAクラス(年間3位)になりましたが、試合に出なかったので実感はなかったですね。
──江藤さんが75年限りで退団すると、後任監督は1930年代からブルックリン・ドジャースなどを率いた超大物のレオ・ドローチャーに決まったんですよね。
大田 そうそう。でも春季キャンプが始まっても本人は来なくて、カセットテープに録音された英語のメッセージを聞かされました。もしかしたら来るんだろうなと思いながら準備したのに、結局は来なかった。
──
鬼頭政一ヘッドコーチが監督に。
大田 だから、ドローチャーが来なくて、僕にとっては良かったんですよ。鬼頭さんは、僕のプロ野球人生で唯一、試合の頭から使ってくれた監督でしたから。ほかの監督からは「その他
大勢」の扱いで、たまに打つと少しだけ使う、の繰り返し。
──指名打者兼レフト、という立ち位置だと、外国人選手やベテランがチームに加入するとポジションを奪われがちですよね。
大田 逆に言うと・・・
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