昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。ロッテ、西武で二塁手として活躍した山崎裕之さんの2回目は、ロッテ時代の2回の優勝から西武への移籍の経緯のお話を伺いました。 文=落合修一 
山崎裕之[写真左]
ヘリで着陸した大物監督・カネやん
──山崎さんがレギュラー二塁手になったロッテは、1970年にリーグ優勝しました。
山崎 巨人との日本シリーズでは最初の打席で足が震えました。当時の巨人は9連覇の真っ最中。子どものころからあこがれていたONと試合をしている。長嶋(
長嶋茂雄)さんも王(
王貞治)さんも、体が大きく見えました。そんなだったから巨人を倒して日本一になってやるなんて無理。1勝4敗で跳ね返されました。
──しかし、リーグ優勝した喜びは大きかったのでは。
山崎 そうですね。20本以上の本塁打を打った選手が自分を含めて5人いたのかな。あの年は打線が良かったけど、投手陣も良かったんですよ。
成田文男、
木樽正明が全盛期で、
小山正明さんもいました。投打のバランスが良かったです。
──
村田兆治さん(68年入団)が新人だったときの思い出は。
山崎 あまりいい話ではないのですが、彼が大阪で初めて先発したとき(69年5月23日、南海戦=大阪)、それを言われて円形脱毛症になったようで、一晩で頭に五円玉くらいのものができていました。繊細で、いろいろ考えたんでしょうね。普段はマイペースでしたが、彼がよく投げるようになってからは、試合の中での思い出はいろいろありますよ。
──例えばどういうことですか。
山崎 僕は二塁手で、隠し球をするチャンスが多かったです。例えば、無死一塁から送りバントをされたとき、ベースカバーで一塁に入って送球を受けますよね。そのときに知らん顔してボールを持ったまま二塁の守備位置に戻るんです。
──なるほど。
山崎 あるいは、外野へのヒットが出て二塁走者が生まれる。外野から返球されたボールをしらばっくれて持ち続ける。そういうときは投手も芝居をしないといけません。ボールを持たないでマウンドに上がったらボークですから。「ヤマさん(山崎)、また持っているな」と即座に察して、さりげなく芝居をするのが村田兆治はうまかった・・・
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