昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。南海末期から福岡ダイエー初期にかけてのホークスのエース・山内孝徳さんの3回目は、南海時代のお話の続きです。 文=落合修一 
山内孝徳
通算与四球率はNPB歴代6位
──南海時代の8年間(1981~88年)のシーズン平均投球回は200を超え、すべての年で2ケタ完投を記録しています。
山内 僕は個人タイトルにこだわりがなかったのですが、その代わりにそれらの数字が僕にとってのタイトルみたいなものでした。シーズンの最初から最後までローテーションを守りながら完投することが、エースとしてのプライドでした。
──エースのプライド。近鉄に
鈴木啓示さん、阪急に
山田久志さん、
ロッテに
村田兆治さんなどの大エースがいた時代、「南海のエースは自分だ」というプライドを持っていましたか。
山内 中4日の登板間隔を守らないとほかの投手に示しがつかないという意識は常に持っていましたね。右手のマメがふやけないように入浴時にお湯につかっても右手だけは外に出していましたし、ドアの開閉をするときも誤って指を挟まないように、右手を使わないようにしていました。
──私生活でも徹底した自己管理。
山内 エースとしての責任感です。それでも社会人時代から走り込みをし過ぎて腰を痛めていたし、毎年投げていると肩やヒジも常に痛い状態でした。痛いなりに誤魔化しながら投げるコツもつかんでいましたが、どうしてもというときは先発直前に五寸釘(くぎ)みたいな太い中国鍼(ばり)を刺してもらっていました。(87年に)南海に移籍してきた
加藤英司さんにたまたまその現場を目撃され、「お前、そんなことをやっていたのか」と驚かれたこともあります。知らない人は僕のことを毎年たくさん投げるタフな投手と思っていたかもしれませんが、実際は満身創痍(そうい)でした。そのツケが今、来ていますよ。
──今ですか?
山内 去年、左股関節に人工の関節を入れる手術をしました。社会人時代から下半身を使う投球をしていたので、股関節や腰がすり減ってしまったんですよ。引退後も趣味のゴルフをするときは痛み止めが欠かせなかったのですが・・・
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