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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

本西厚博(元オリックスほか)インタビュー<1>瓊浦高ではエースで四番、甲子園初出場も「準完全試合を食らう寸前でした」

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昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からはオリックスほかで守備の名手として輝きを放った本西厚博さんです。まずはプロ入り前の瓊浦高、三菱重工長崎時代のお話から伺いました。
文=落合修一

本西厚博


高3夏、長崎の本命は諫早高だった


──お生まれは長崎なんですね。

本西 親父は長崎市内で自前の船を持つ漁師でした。僕は兄1人、姉3人の5人きょうだいの末っ子です。小学生のときは遊びでソフトボールをする程度で、足が速くて目立っていた僕は長崎市立東長崎中に入学したら陸上部に入るつもりだったのです。しかし、野球をやっていて高校からも声が掛かっていたけど中卒で漁師になった5歳上の兄貴が「お前も野球をやれ」と、僕は野球部に入らされました。弟に夢を託したかったのかもしれません。だから野球を始めたのは野球を好きだったからではないし、自分の強い意思ではなかったんです。

──守備位置はどこだったのですか。

本西 中3から投手だったのですが、その前は捕手以外、全部やったのかな。打撃は得意で三、四番を打っていました。3年で投手になったのは、ほかにいなかったから(笑)。県大会に出てもすぐに負けましたが、僕も少しは目立っていたんでしょうね。いくつかの高校から誘いがあって、中でも私立の瓊浦高が特待生として迎えてくれるという。学費がかからないのは親孝行になっていいなと、瓊浦高に決めました。その時点では甲子園未出場で、そんなに強くなかったですね。夏は、良くてベスト8という県内中堅クラス。だから何が何でも甲子園に出ようと選んだわけではなかったのです。

──初めての硬式野球ですよね。最初はどうでしたか。

本西 入学前、中3の春休みくらいですかね。練習に参加して、先輩の選手と組んでトスバッティングをしたら目の前から速い打球が飛んできて、右手親指を骨折。硬球があんなに速くて硬いとは。野球をやめようかと思いましたね。

──高校では最初から投手だったのですか。

本西 いや、1年の夏(1978年)は背番号15で外野だったかな。秋の新チームから投手になって、2年夏(79年)は初戦敗退です。その後、スリークオーター気味に腕を出したほうがお前の腰の回転と合っているぞとコーチに言われ、それがハマったんですよ。右打者の内角低めに食い込みながら落ちていくシンカーみたいな変化球を覚え、勝てるようになりました。投球の3分の2はその変化球でした。3年春(80年)は県大会で優勝しました。

──一気に、夏の本命に?

本西 大本命は諫早高です。センバツに出てベスト8だったので、春の県大会に出なかったのですよ。夏の大会の前にNHK杯という大会があって、決勝で諫早高に0対1で敗れました。夏はお互いにシードになって、決勝まで諫早高と当たらないんです。そしたら、諫早高が準々決勝で・・・

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